帰命無量寿如来 南無不可思議光 って何? どういう意味?
帰命 って何? 南無 ってどういう意味?
南無は帰命なり 帰命は帰依なり すなわち弥陀の召喚なり
って言ったって、なんのこっちゃさっぱりわからん。
というわけで、できるだけ仏教用語を使わずに、いや、仏教辞典の中で、一番平易な解説を参考にして、しかも原文から大きく意訳せずに読み下ろしてみたのです。
読み下ろしてみたら、南無阿弥陀仏と唱えれることの大切さとが要約されているいう文章でした。
スーパーエキスパートの方の中では、ちょっと区切り方が違う、とか、そこは解釈が違う、という部分があるかも知れません。その場合は、どうぞわかりやすくご教示いただければ幸いです。
帰命無量寿如来 南無不可思議光
命の尊厳の教えをよりどころとし、私たちの思い量ることのできない光となって働きかけてくる力にしたがって生きていきます。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
阿弥陀如来は覚りを得る前に、法蔵菩薩と名のられて、世自在王仏という方を師として修行されました。
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
諸仏として生き、命を尊びあえる浄土と呼ぶ世界に生きるための要因と、世界の人々の生きざまのなかで、それを阻む全ての原因を深く観察し、浄土に生きていこうという、この上ない願をおこされ、人々を必ず浄土に生きさせるという、世にも稀なる大きな誓いをおこされました。
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
五劫という途方もない時間を思索し続け、48の願いを選びぬかれ、命の尊厳についての呼びかけが世界中に響きわたれと誓われたのです。
普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹
その願いは、量ることのできない、行き着く果てのない光であり、排除することなく、対比することなく、何ごとも貫いていく強大な炎のような光であり、清らかで、清らかで、喜びに満ちあふれ、暖かい心からわき出す智慧のような光であり、断絶されることなく、人智で思いはかることが到底難しく、称えることのできない光であり、太陽や月の放つ光をも超越する力を放って、全ての世界を照らしています。
一切群生蒙光照
全ての命あるものは、自覚はしていないでしょうが、その光の力に照らされているのです。
本願名号正定業
阿弥陀仏がたてられた願のなかで、南無阿弥陀仏との名のりそのものが、浄土へ生きていくための正しい行いの根本なのです。
至心信楽願為因
心から信じ切り、常に持ち続けることが浄土に生きていくための願いを成就させていく要因なのです。
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
阿弥陀仏と等しい覚りを成就し、浄土に生きていけるということを証明しているのは、必らず浄土に生きさせるという願を、阿弥陀仏が成就させているからなのです。
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
お釈迦さまが世に出られた理由は、ただ一つ、阿弥陀如来の海の如き広大で深い願を世界に説くためだったのです。
五濁悪時群生海 応信如来如実言
社会に悪がはびこり、自分の都合を押し通し、欲望と憎しみが増大し、よこしまな考えがはびこり、そして自分も滅びていく世界<五濁悪時>に生きる人々にとっては、まさに、わき目も振らずに阿弥陀仏の救いの力を信じ、それに応えていくことです。
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
自分の命を見つめ、いのちを喜びあえる心をおこすならば、あるがままの生きざまの中でさえも自分を解放していく道が開かれていくのです。
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 摂取心光常照護
凡夫であろうと自力の道を歩む聖者であろうと、またたとえ阿弥陀仏の教えに逆らい誹謗する人であっても、阿弥陀仏の救いの力にひとしく包みこまれゝば、どんな水も海に入ればみんないっしょになるのと同じで、必ず救いとると願われた阿弥陀の誓いは、光となって常に私たちを守り照しているのです。
已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
光は無明の闇を突き破って行くとはいえども、むさぼり求め、怒りや憎しみの雲霧は、いつも真実を信心すべきはずの私たちの根性の上に覆いかぶさっています。
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
しかし、たとえ日光の下を雲霧が覆っているからといっても、雲霧の下は真っ暗ということはないのです。
獲信見敬大慶喜
信じきるということを獲得し、阿弥陀の願いが何であったかに気がつくならば、うれしさが身にほとばしってくるのです。
即横超截五悪趣
そして、命を粗末に考える生きざまの世界のありようを、みんなと共に断ち切ってとおり超えていくことができるのです。
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
すべての生きとし生ける人々よ、阿弥陀仏が我らにひとしく誓われた願いを聞きうけ、それを信じべきなのです。
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
阿弥陀が必ず救いとると宣言された誓いを受けとめ、その誓いを信じる人を、阿弥陀仏は「広大勝解の人」といわれ、この人を百年に一度しか咲かないといれる「分陀利華」のようだと、その生きざまを誉め名づけられました。
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難
阿弥陀の願である命を大事に生きようと念ずることは、よこしまな思いの中で、驕りたかぶって生きている人間にとっては、その願いをしっかりと受け止め、その思いを保ち続けることは困難でしょう。
難中之難無過斯
そのことは、人間の生きざまの中では、実行しがたいことの最たるもです。
印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
インドの仏教学者や、中国・日本の高僧は、釈迦が世に出て来られた本当の意味をあきらかにされ、阿弥陀如来の願いが、人それぞれの生きざまに適応して説かれていることをあきらかにされました。
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
お釈迦さまはインドの楞伽山において、人々のために告げられました。
龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
それは、『南天竺国に龍樹大士が現れ、物事に執着することが、あらゆる悩みや苦悩の原点になるということを見破るであろう』と。
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
龍樹大士は、阿弥陀の救いの力にしたがっていくという教えこそが無上であると説き、自らが歓喜地を得て、苦悩から解放される安楽国の存在を証明しました。
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
陸路を歩いて行く旅はつらくて困難ですが、水の上を行く船に乗せられての旅は易しく行きやすいのです。
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
弥陀の願いを心の中にしっかりと保ち、はっきりおぼえて忘れなければ、自然に、しかもたちまちに浄土という世界に入れるのです。
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
ただよく、常に、阿弥陀如来の名を称し、阿弥陀仏がたてられた、我らをひとしくすくい取るという阿弥陀の誓いの恩に応えていくことが大切なのです』と説かれました。
天親菩薩造論説
天親(世親)菩薩は『無量寿経優婆提舎願生偈』(浄土論)をつくって説かれました。
帰命無碍光如来
「私は、何者にも妨げられない光のようになって私の身に降り注いでいる阿弥陀の力に随って生きていきます」と宣言されました。
依修多羅顕真実
天親菩薩は浄土論の中で、『大乗の教えによって真実があらわされているのです。
光闡横超大誓願
迷いの心を横さまに断ち切っていくのが阿弥陀仏の願いです。
広由本願力回向 為度群生彰一心
阿弥陀が私たちを救いきっていこうという願いの力のはたらきによって、人々が救くわれていくための信心の姿とは何であるかをあらわしました。
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
それは、大いなる真実の海に身を投げ入れたならば、必ず聖者の仲間に入ることができるということなのです。
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化
浄土の世界に至ることができれば、たちまち真実不変の身が証明され、さまたげられることなく自在の力を発揮して、娑婆世界の人々に対応して導いていくことができるのです』と説かれました。
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
浄土教の師である曇鸞大師とは、梁という国の国王が常に曇鸞大師のおられる方角に向かって、菩薩と敬まわれた方です。
三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
菩提流支という方に観無量寿経を授けられ、不老長寿を説く仙経を焼き捨てて、大乗の教えに入られました。
天親菩薩論註解
天親菩薩の浄土論を注釈され、
報土因果顕誓願
『浄土という世界に入っていくための要因は、阿弥陀の誓願に顕されています。
往還回向由他力
浄土へいくためのはたらきや、娑婆世界へ還って人々を救っていくはたらきは、私のちからではなく、阿弥陀仏がはたらきかけてくる他力なのです。
正定之因唯信心
ただ信心のみが正しい行なのです。
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
迷いに染まった凡夫も、信心をおこせば、娑婆にいながらも浄土を体得することができるのです。
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
無量光明の世界に必ず到達できるのであるから、諸々の悩みを抱えて生きている人々を残らず救くいとっていくのです』と説かれました。
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
道綽禅師は、自力の道が完遂しがたいものと見きわめられ、他力の教えのみが浄土の世界に通じる道であると明らかにされました。
萬善自力貶勤修
『善を積むことが良いのだと思う自力は、浄土に生きようという教えの実行を妨げてしまいます。
円満徳号勧専称
本当に条件を満たしていくはたらきは、もっぱら南無阿弥陀仏を称することなのです』と説かれました。。
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
信心を尊ばず、信心が定まらず、信心が続かない人間の生きざまを懇切丁寧に教えられ、仏法の教えが形ばかりになってしまった時代や、仏法の教えが実行もされなくなってしまう時代の人々を哀れみ悲しまれ、
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
『一生悪をつくり続ける生きざまであろうとも、本願に出あい、浄土の世界に至れば、生きる喜びを見出すことができる』と説かれました。
善導独明仏正意
善導大師はただひとり、仏の願われていた根源を明らかにされました。
矜哀定散与逆悪
「精神を集中統一して修する定善とは、仏を観るための縁であり、日常の散り乱れた心で修する散善とは、行をあらわす縁である」との論理をたてられ、①父を殺し②母を殺し③さとりを得た聖者を殺し④仏法を信じて仏道に生きている人々を殺し⑤仏身から血を出させる<五逆>人々の生きざまを哀れまれ、
光明名号顕因縁
阿弥陀の投げかけてくる光明と、それに応える名号は、互いに因となり縁となって人々を浄土の世界へと導いていくと説かれ、
開入本願大智海 行者正受金剛心
『阿弥陀仏の願われた大いなる世界に入り、念仏の道に生きていく人には、金剛のような固い信心をしっかりと受けとめることができます。
慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
その喜びの一念と阿弥陀の願いが相互に働きかけて、韋提希夫人と同じく、教えを聞いてさとり、法の道理にすなおに随ってわきまえ、真理にかない、形や姿を超えて真実をありのままに見ていくという「三忍」を得て、真の安らぎを体得することができるのです』と説かれました。
源信広開一代教 偏帰安養勧一切
源信和尚は広く釈迦一代の教えを広め、念仏の力にすくい取られて、浄土に生きることを勧められました。
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
雑行雑修に囚われる人は方便化土に生き、専修正行をひたむきに生きる人には、必ず真実の世界がもたらされ、浄土には「報土」と「化土」があるという理論を確立されました。
極重悪人唯称仏
『惑い、疑い多き我らがごとき極重の悪人は、ただ称名念仏のみが残された道でなのです。
我亦在彼摂取中
我らは阿弥陀仏のすくい取ると誓われた光の中にあるのです。
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
煩悩に眼が遮られて見えないといっても、阿弥陀仏の大悲は倦くことなく常に我らを照らしているのです』と説かれました。
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州
私の師、源空上人(法然上人)は、仏教の真意に通じられ、我らがごとき善悪の凡夫を哀れんで、浄土宗の教えを日本に起こされました。
選択本願弘悪世
選択集という書物を著して、惑い悩み苦しみを味わっている世の中に阿弥陀仏の願いが何であるかということを弘められました。
還来生死輪転家 決以疑情為所止
『憎しみ、惑い、苦しみ、もがきながら六道を輪廻していく世界に巳を置いてしまうのは、私たちが持つ疑いの心が為す仕業なのです。
速入寂静無為楽 必以信心為能入
煩悩に患わされない浄土の世界に速やかに入っていくには、信心こそのみがそのはたらきをなすのです』と説かれました。
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
インド・中国・日本の祖師らは、我ら無数の極濁悪の凡夫を救わんがために、教えを広められました。
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
念仏の道にいそしむ人も、日常生活送っている人も、心を同じに持って、これら七人の方々の説を信じることが大切なのです。
用語解説
主として『真宗新辞典』を参照しました。
浄土 極楽浄土、涅槃界、安養浄土、安楽国などと様々な言葉で言い換えられる。清浄な国土。浄刹、浄邦、浄国、浄界。仏のさとりによってかたちづくられた国土。将来さとりを開くべき菩薩の住むところをもいう。煩悩にけがれた穢土に対する。大乗仏教では涅槃に積極的なはたらきを認めて、涅槃を得た無数の仏がそれぞれに無数の衆生を 教え導くとし、その国土を浄土といい、娑婆世界の他方に現に存在し、或は未来に建設されると説き、また心がきよまれば住む国土もきよまるとも、さとってみれば娑婆もそのまま浄土であるともする。阿弥陀仏の浄土を安楽世界、極楽浄土、安養浄土等と名づけ、西方十万億刹を過ぎた所にあるとし、この弥陀の浄土に往生することを願うのが浄土門である。親鸞は土に法・報・応・化の四土があり、報土には弥陀・釈迦・十方の3種があるとし、弥陀の浄土は如来の願海に酬報した報土であるが、願海に真仮があるから報土にも真土と化土の別があるとする。
涅槃 ニルバーナ音写。泥海、涅槃那などとも書く。滅、滅度、寂、寂滅と訳する。大般涅槃とはすぐれた完全なさとりの境地をいい、大円寂と訳する。涅槃は元来、吹き消すこと、吹き消した状態を意味する語。燃えさかる煩悩の火を消しつくしてさとりの智慧を完成した境地をいい、仏教の究極的な実践目的である。真宗では,浄土真実の証を利他円満の妙位・無上涅槃の極果とし、それは必至滅度の願(第11願顧)にもとづくもので、凡夫が往相廻向の心行をうれば即時に往生すべき身とさだまって正定聚の数に入り、必ず滅度に至らしめられる。滅土とは、即ち常楽,畢竟寂滅、無上涅槃、無為法身、実相、法性、真如、一如であり、また、涅槃は滅度、無為、安楽、常楽、実相、法身、法性、真如、一如、仏性であり、即ち如来であるとする。涅槃は浄土に往生してひらく果で「如来すなわち涅槃なり」「にょらいとまふすはすなわちねちはんとまふすみことなり ねちはんとまふすはすなわちまことのはふしんとまふす仏性なり しるべし このぼむぶはこのせかいにしてさとらず候へぱたりきをたのみまいらせてあんらくじゃうどにしてさとるべしとなり」とある。念仏は「即ち是れ涅槃の門」、「無上涅槃のさとりをひらくたね」であり、信心は「涅槃の真因は唯信心を以てす」とも「涅槃門に入るは真心に値うなり」ともせられ、「涅槃道」であり、「惑染の凡夫、信心発すれば、生死即ち涅槃柴なりと証知せしむ」とする。涅槃界は無明のまどいをひるがえして無上涅槃のさとりをひらくさかいであり、浄土を「極楽無為涅槃の界」とも「涅槃のみやこ」ともいう。また、無上涅槃について「かたちましますときには無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏とまふす」という。なお、涅槃について、部派仏教(小乗)ではこれを消極的に考え、煩悩も肉体も滅無に帰した灰身滅智の境地を究極的なものとするが、大乗仏教では涅槃に積極的な意味をあたえ、常楽我浄を涅槃の四徳とし、智慧によって煩悩障・所知障を離れているから生死の迷界にとどまらず、しかも大悲をもって衆生を救済するために迷界に入って活動するから涅槃の境地にとどまらず、これを無住処涅槃とする。小乗の涅槃を有為涅槃、大乗の涅槃を無為涅槃という。また、煩悩を断じつくしても肉休(残余の依身、余依、余)が残存しているのを有余涅槃、肉体も無くな り余依がないのを無余涅槃という。「無余涅槃に於て次第に涅槃に入ることを得 む、遺余有ることなけむ」。
釈尊入滅の日にあたる2月15日に行う法会を涅槃会、常楽会、仏忌、涅槃忌という。法然は臨終に「頭北面西右脇にて 如来涅槃の儀をまもる」と伝える。
歓喜地 十住毘婆沙論(龍樹作)では、仏道を極めていく段階を10の階に位置づけた。①歓喜地、②離垢地、③発光地、④火焔地、⑤難勝地、⑥現前地、⑦遠行地、⑧不動地、⑨善慧地、⑩法雲地。
真宗では、真実信心を得れば必ず仏となる身に定まり、喜びが多いからこれを初歓喜地になぞらえる。
第7地においては、上に求めるものがないと思い、下に救うべき衆生もないと思いこんで、自分の進むべき道を見失ってしまうので、七地沈空の難という。
悪趣 生活行為のむくいとしておもむく生きざまの世界をいう。
三悪趣 地獄・餓鬼・畜生の生きざまの世界をいう。
五悪趣 地獄・餓鬼・畜生・人・天の生きざまの世界をいう。
六道
生死の世界として | 地獄 | 罪業によりその報いを受ける最悪で極苦の生存とその環境。 |
餓鬼 | 貪りの心による行為の報いとして受ける境遇。 | |
畜生 | 人に畜養されて生きていく世界。自分の意志では自由に動けない世界。 | |
修羅 | 戦闘することを第一義とする鬼のこと。力ずくで物事を押し通そうとする世界。 | |
生きざまの世界として | 人 | 人間のこと。いつでも三悪趣の世界に陥る可能性を持って生きている世界。 |
天 | 迷界の中で最高の生存の世界を指す。欲界には6つの天、色界には17の天(16、18とも説く説がある)、無色界に4つの天があるとされる。 しかし、天人は①命終にあたり衣服が垢で汚れ、②花の冠がしおれ、③体が臭くなり、④腋の下から汗;が流れ、⑤自己の地位を楽しまぬもの、として、やがて滅びていくものとされている。 |
輪廻 業因(結果を生ずるための原因)によって六道を生まれかわり死にかわり流転していくこと。
定散 観経に説かれているもので、精神を集中統一して修する善を定善といい、日常の散り乱れた心で修する善を散善という。善導大師は観経の初めの13観を定善とし、後の3観を散善とした。定善は観を示す縁であり、散善は行を顕す縁とした。
定善 | 日想観・水想観・地想観・宝樹観・宝池観・宝楼観・華座観・像観・真身観・観音観・勢至観・普観・雑観 |
散善 | 上輩観 | 上品上生・上品中生・上品下生 |
中輩観 | 中品上生・中品中生・中品下生 | |
下輩観 | 下品上生・下品中生・下品下生 |
専雑 仏道を修していく上での正行には、専修と雑修があるとした。専修の中にも、①専修専心と②専修雑心と、③雑修雑心があるとした。
専修はもっぱら阿弥陀仏の名を称えることであり、雑修はその助業であるとした。専修のものは10人が10人ともに浄土往生ができるが、雑修のものは一人も往生できないとした。(往生礼讃による)
専修正行 | ただひたすら阿弥陀仏の力(他力)により、称名念仏していくことこそが浄土往生の正因であるということから、専修正行といわれる。 |
雑行雑修 | 阿弥陀仏の他力に疑いを持ち、自力の心を捨てきれず、浄土往生の道を積み重ねようとしてもそれは不可能に近いことだということから、専修正行以外のことは雑業雑修といわれる。 |
報化二土 阿弥陀の報土(浄土)には、真実報土と方便化土の二つがあるとした。
真実報土 | 広大無辺な阿弥陀の力に包み込まれた真実の浄土のことをいう。 |
方便化土 | 疑城胎宮とも化身土とも辺地往生ともいい、人々の願いが多様であることにより、浄土の世界もその願いに応じて方便の浄土として用意されている。そして、この方便化土に一端往生して後に、真のさとりに目覚めて真実報土に導かれるのだとした。 |
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