赤穂浪士 不破数右衛門

数右衛門と宗玄寺の関係

赤穂浪士不破数右衛門正種は幼名を「藤八」と言い、赤穂藩士岡野治太夫正治の子で,断絶してい不破家復興のために養子となり、同藩士村松喜兵衛の娘「くに」を娶り二児がありました。

 数右衛門会々事(一説には大野九郎兵衛との不仲説、一方では新刀の試し切りによる引責ともある)に触れて流浪し、江戸に浪人として暮らしていました。

 江戸城松の廊下での事件により、浅野内匠頭切腹・領地召上げとなり、藩士は悉く離散しました。このとき実父の岡野治太夫は、隠居しており、一時播磨亀山に移っていましたが、実妹「おさよ」(通称「熊女」)の婚家である古市の鍵屋という造り酒屋の酒井三郎右衛門(おさよの夫)を頼り来て、治太夫夫婦と数右衛門の二児と共に寄食し、その後、更に「おさよ」の娘の嫁ぎ先となる古市宗玄寺に寄寓していました。

 数右衛門は内匠頭に重用されていたため、その恩に報いん為に、ひそかに一味に加わり復讐の機を待っていましたが、生前に両親や愛児に会わんとして、江戸より亀山を訪ねましたが、既に両親は古市に移住していましたので、人目を避けるため、古市との村境の不来坂峠で村人を使いにたてました。 

 母は二児と共に不来坂峠に出て数右衛門と出会い、二児を託し置いて寺に引き返し、自分の白無垢の下着を取り出し、その裾を絶って襦袢にし、幾何の銭とを持って戻り、もし復讐の挙あらば此の襦袢を着て、母と二人の働きを為すようにと、この襦袢を贈り、尽きぬ名残を惜しみました。

 数右衛門はそのまま江戸へ帰り、その後の討ち入りの当夜、一味と蕎麦屋に集まって各自討ち入りの装束する際、数右衛門が母より贈られた女物の襦袢を着るのを見た大高源吾は、その由来を聞き、感銘して、背後より次の白居易の一句を襦袢の背に書きました。

     松樹千年遂是朽
     槿花一朝自為栄   源吾書  出典 浄頼光跡目論 五

泰山不要欺亳末  顔子無心羨老彭  松樹千年終是朽  槿花一朝自為栄
何須恋世常憂死  亦莫嫌身漫厭生  生去死来都是幻  幻人哀楽繋何情

 元禄14年12月、ついに本望を達し泉岳寺に引上げた後、松平隠州公邸宅に御預けとなり、同16年癸未年2月4日に切腹しました。行年34歳。戒名「刃観祖剣信士」と号し、泉岳寺に墓地が建てられています。

 自刃に先たち、松平公より特に遺言が認められ、襦袢は母に、小刀は長男「大五郎」に、また笄(こうがい ・・・・櫛の一種)は長女「つる」に送られるよう遺言し、後に、松平公の家臣により古市の宗玄寺の遺族に寄せられました。

 大五郎は類難を避けるため篠山町の大膳寺(禅宗)に入って出家し、「大雄」と号し、その後三河の永昌寺へ入寺したところまでは判明していますが、その後の消息は途絶えています。

 大五郎のここまでのことは今までの通説として伝えられていました。しかし、史実的に把握できることからの傍証は次の通りにならざるを得ません。

元禄11~12年(1698~1699)不破数右衛門浪人する。(懲戒免職)
(娘「鶴」が元禄16年(1703)に4歳であったということからの類推)
この頃すでに数右衛門の実父母が2人の孫(大五郎/鶴)を伴って実父(岡野治太夫)の妹(熊)の嫁ぎ先(古市の鍵屋)を頼ってしばらく寄寓し、やがて鍵屋の兄筋にあたる宗玄寺の寺屋敷にて過ごすことになる。
元禄13年(1700)熊(岡野治太夫の妹)死去
元禄14年(1701)松の廊下で傷害事件発生
即日赤穂藩主浅野内匠頭は切腹処分
元禄15年(1702)吉良邸襲撃(世には「討ち入り」という)
元禄16年(1703)浪士は切腹処分となる
 (この時、大五郎6歳 鶴4歳)
切腹した浪士の子どものうち、男子は八丈島へ遠流
出家僧侶となんったものは遠流を免ぜられた。
大五郎は篠山の禅寺(大膳寺)へ入る。実祖母が付き添ってともに移る。大五郎は「大雄」と号した。
『徳川実紀2月4日条』
   内蔵助はじめ此輩の子弟はみな遠流に處せらる
宝永6年(1709)徳川実紀2月29日条』
「前代処罰者諸有司赦免」  
…浅野内匠頭長矩が家人等、先に主の讐を報ぜんとて、吉良上野介義央を討たるをもて死をたまひ、その幼子みな親戚にあづけられたるも、このときゆるし下さる。
正徳3年(1712)岡野治太夫死去
 (宗玄寺の寺屋敷にて 本功院釋隠良 真宗法名) 
大五郎15歳 鶴13歳
宗玄寺住職龍元は御影照明寺より聟入夫しており、一人になった鶴を、照明寺住職をしている弟宣隆の妻へと嫁したのではないかと考えられる。(「鶴は長じて照明寺の住職の妻となる」という表現がされている。)
享保5年(1720)治太夫の妻(大五郎の祖母)死去
(大膳寺にて 本照院永春信女 禅宗戒名)
 大五郎23歳 鶴21歳
享保5~6年(1720-21)大五郎23-24歳 三河の永昌寺へ移る?
享保15年(1730)鶴(数右衛門の娘)死去
 (御影の照明寺にて 釋妙宣31歳)
安永2年(1773)るい(鶴の娘)死去
 (宗玄寺に嫁して 釋尼誓隆59歳)

大五郎を育ててくれた祖母が死去し、振り返って見るとすでに妹の鶴は照明寺へ嫁してそれなりに平穏な日常を送っていた。父の類罪はすでに恩赦になっている。祖父もすでに亡く、独りの身になった大五郎は大膳寺に留まるさしたる理由もなく、ふらりと丹波の地を後に三河の国の永昌寺へ移ったのである。同じ禅寺で、何かの関係があったのかも知れない。

 しかし、元は武士の家であり、父の類罪を免れるための出家であったので、僧侶として暮らすことに疑問が生じたかも知れないのは察するにあまりある。

 やがて還俗(僧をやめて俗人に還る)して市井の中で暮らし始めたことは容易に考えられる。大五郎を縛りつけるものは何もなくなり、孤独であるが、自由奔放な世界が開けたのである。

2016.1.18追記

 また、「鶴」(通称「おつな」)は宗玄寺の縁寺である神戸御影東明村の真宗寺院「照明寺」へ預けられ、長じて照明寺住職の弟「宣隆」の妻となりました。(当時の宗玄寺住職は照明寺より入夫した「龍元」で、弟の「宣隆」が照明寺の住職となりました。)
また、「おつな」の娘は宗玄寺に嫁入りしました。

 当時、「鶴」は4歳(他の資料から計算すると)でしたから、その時、間なしに照明寺に預けられたのか、あるいは少し成長してから預けられたのかはよくわかっていませんでしたが、どうやら前述追記の用ではないかと考えています。

 昭和7年に、古市村の大事業として、宗玄寺境内に顕彰碑が建てられ、毎年盛大に村をあげて「義士祭り」が催されていました。今の「町おこし」だったのでしょうが、戦後GHQの指示により中止されていたのを昭和30年に子供会を礎に再興されました。
 宗玄寺門徒墓には、岡野冶太夫夫婦と、酒井三郎右衛門・おさよの墓が残されています。

 これが代々口伝として伝わっていることです。これ以外のことは知りません。それは小説や脚色の世界だと思います。

 来たけど、何にもない寺やなー。

 すみませーん。観光寺院ではないものですから・・・・。

 住職、何にも知るらんなー。
 
 すみませーん。忠臣蔵マニアではないものですから・・・・。

義士の歌

 最近ある方から昔の義士祭の時に歌ったという歌の歌詞を教えていただきました。この歌が古市だけのものではないと思いますが・・・・。たぶん全国あちこちで歌われていたのでしょうか・・・・。

義に勇む ますらおが
  偲び偲びつ 狙いよる君の仇
   吉良の義仲 更けし夜の雪空に
     人は寝(いね)たり 時は良し
       いざ進め 今宵最後ぞ

 一番の歌詞のみをご記憶でした。歌っていただいたのですが、とても憶えられるようなメロディーではございませんでした。

 2015.3.31に古市小学校の乙女先生が、年寄のウロ覚えの歌を元に採譜をしていただきました。誰もが1番しか覚えていなかったのです。
元の作詞作曲者は判りません。

おことわり

 お芝居や物語や、そしてこの歌詞でも、吉良のお殿様に対して、評判の悪いような表現が用いられていますが、それは「脚色」の世界と、日本人の「判官贔屓」によることが大きな成因であると私は考えています。対立する物事には両面から見ないと本当の真実はわかりません。一方の言い分だけが誇張されたのではないかと思っています。
 事の発端は、赤穂藩江戸詰役人が、作法指南役である吉良上野介さんへの鄭重なる「お願い」と、「外交折衝」の稚拙さが生み出した事だと思っています。(2016.1.18追記)

 与那国島出身の匿名さんから、義士の歌についてメールをいただきました。与那国島にもつたわっていましたので、全国版の歌だったらしいとのこと。つたわるうちに少しだけ歌詞が違うようですが、ほぼ一緒でした。
 メロディーは簡単だったとのことですので、古市で歌われた方に歌い癖があったのかも知れません。
 2番の歌詞は、ご当人が50年近くも歌わなかったので、断片しか記憶がないとのことです。

恨みふく 君の仇
  しのびよる芝小屋に ******
   ******* *******
    ******* *******
     *******  仇はとげたり

   ああー忠臣 ああー忠臣 四十七義士

だそうです。2010.12.18のことです。


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