お釈迦さまの教えが七高僧を経て、親鸞さんの『正信偈』に伝わってきたのには、大きな理由があったのですねぇ。
お釈迦さま自身の仏教は、自己に厳しく修行を重ねていく「自力の道」であったのです。後に、自力聖道門とか小乗仏教などと呼ばれるようになったのです。
しかし、自力でさとりを得ていくということは、全ての人にとっては達成困難な道だったのです。多くの戒律を守り、身をただして生活していくことは容易にできるものではありません。
阿弥陀仏という存在を考えたとき、阿弥陀仏がどのように私たちに救いの道を開いているかを考えたとき、そこに阿弥陀の力に乗っかって行くという他力浄土門、つまり大乗仏教の考えができて来たのです。
仏教が万民に平等にはたらきかけてくるものという大前提の課題を探っていったとき、私たちの生きざまを真摯に見つめていくと、大乗という道しか残らないと考えたわけです。
七高僧といわれている龍樹・天親(インドの人)・曇鸞・道綽・善導(中国の人)・源信・源空(日本の人)の人々は、全ての人がひとしく阿弥陀の力によって救われていくという大乗仏教の理論を構築していったのです。
最後に親鸞さんのところにたどり着いたとき、親鸞さんは、念仏の回数ではないと言うことに気づかれたのです。それは七高僧が構築していった大乗論の中に出てくる論理を発見されたと言っても良いのではないかとも思います。
念仏を100万回唱えれば浄土に行けるという考えもあったようです。それは、京都に「百万辺」という地名にも残っています。
しかし、真実心底から称える念仏であれば、一回の念仏であってもよいと考えたのです。
南無=帰命→帰依→はいわかりました。そのようにします。
つまり絶対に随っていくという意味です。
阿弥陀=無量寿→人智では計り知れないいのち
つまり、いのちというものは絶対に尊い存在であるという意味です。
仏=覚者→さとりを得た人(死んだものではないのです)
つまり、「うん、そうだ、そうだ、とうなずいていく人」という意味です。
三つつないで読み下ろしてみると、
いのちが絶対に尊いということにうなずいていきます。
という意味になります。
「いのちは尊いということですね」と語りかけてくる阿弥陀仏の言葉に対して、「そうです!」とうなずいて応えていくことは、それをはっきり自覚しておれば、念仏は一回しか言うことができなくても、その人の根源に備わっていくことになります。一度備わった根源は、明日も明後日も、その人の生きざまの中につながっていくことになります。
そういう人が隣にもできてきたとき、仏仏相念、つまり、互いに尊重しあえる出逢いが生じて来ることになります。この出逢いの世界を浄土というわけです。
南無阿弥陀仏という言葉の意味がわかれば、正信偈に何が書かれているのか、いや、『浄土論』は何を根拠に展開されているかということが容易に類推できるのかも知れません。
「正信偈大冒険」は、そうした観点から読んでみました。
正信偈は「依経分」と「依釈分」の二つから構成されていると聞いています。親鸞さんが「依経分」・「依釈分」などと難しい言葉で分けられたのではなく、後世にそのように解釈したのでしょう。
「銀杏通信」(真宗大谷派大阪教区公式サイト)というホームページでは、
「依経分」は『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』の根本精神である本願念仏の道理とその救いが述べられ、浄土真宗の内容が示されています。「依釈分」はインド・中国・日本を通して、七人の高僧方が本願念仏の教えを正しくご解釈してくださった伝統が述べられています。
と説明されています。具体的には「帰命無量寿如来」から『難中之難無過斯」までの22行が「依経分」で、「印度西天之論家」から「唯可信斯高僧説」までの38行を「依釈分」というそうです。
「正信偈大冒険」は少しずつ変化していくことになると思います。悪しからずご寛容ください。今は、真宗大谷派の「真宗聖典」の表現により区切っています。
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