正信偈大冒険の序曲


夜の京都の喫茶店。会議の後で5人の坊主がコーヒーを飲んでいた。5人の内の一人はもちろん私である。他の4人はエライ(?)お坊さんであった。
 唐突に話がご和讃に移った。いや、唐突に移したのは私であった。
 正信偈の後に浄土和讃が6首つけられているなぁ。一首目は
  弥陀成仏のこのかたは
   今に十劫をへたまえり
    法身の光輪きわもなく
     世の盲冥を照らすなり
 なんだけれども、2首目から6首目までは、それぞれ和讃の4行目は
  ****に帰命せよ
 で終わっているが、あれ、何に「帰命せよ」やったのかなぁ。

 と、咄嗟に自分も思い出せなかったけれども、素朴に尋ねてみたのです。

 で、5人とも、はたと困り果てて首をかしげたのです。
 あれこれ思い出そうとするのですが、スラスラと五つの言葉が出てこないのです。ポツリポツリと、ようやく四つまで出たのですが、五つ揃わないのですねぇ。
 やがてその内の一人がトイレに立った行ったのです。残った四人はまだ思案をしているのですねぇ。少々長いトイレから帰ってきたお坊さんは、
 わかった。わかった。○○やった。
と言うのですね。

 多分トイレで用を足しながら、正信偈同朋奉讃を早口でブツブツと終わりまでやったのでしようねぇ。
 きみょうむりょうじゅにょらい・・・・・・

 人は唐突に問いかけられると思考回路が混乱を起こすらしいのです。いつもいつも口にしている正信偈であり、今まで何百回も口にしてきたであろう浄土和讃の六首も、ぶつ切りで一部分の言葉を問われると、その固有名詞が出てこないのでした。

 意地悪く考えると、何度も何度も口にしてきた正信偈であっても、ひょっとしたら、単に歌として(画像的なイメージ記憶に)頭に入っているのではないかと・・・・。

 随分と以前のこと、本山でのお勤めの際に、一瞬、正信偈が止まってしまったことがあったと、亡き祖父から聞いたことがあったのです。
 みんな空で憶えているが、何かの拍子に全く偶然にもみんなの意識の中で言葉が詰まったらしいのです。誰か一人でも本を携えていたら、次の語が出て、正信偈が続いたであろうに・・・。

 一頁飛んでしまったこともあるし、
  天親菩薩造論説 の次に 天親菩薩論註解 というよく似た所が出てきます。うっかりすると、グルグル周りになってしまうこともありました。
 馴れてしまうと手ですることを足でする
と蓮如さんも言われているのですが、いやまさに馴れというものは厄介なものです。


と、ここまでは長ーい前置き。
 さて世間では
 仏教はむずかしい
 意味がわからない
 仏教用語を使わないで話をしてほしい

などと言われます。そうなんですよねぇ。

 私なども、お坊さんの法話を聞いていて、何となくわかったようでもありながら、いつも仏教用語で煙に巻かれているようにさえ思うのですから。
 ワケが解らないから、お経というものの中味は当然にして解らない。解らないから何やらありがたい呪文のようにさえとられてしまう。
 「お経を唱えたら先祖の霊が満足し、私たちに祟ってこない」とか、「熱心にお経を上げていけば、無病息災、宝くじの一等に当たり、入試に合格する」などという、ちょっと首を捻りたくなる現象もおこってくる。
 
 なかなか適当な言葉が見つけにくいので、少々乱暴な表現でいってしまえば、お経とは「人生哲学の論文」と言うことができると思うのです。
 人はどのように生きていけばよいのかということについて、「あーでもない。こーでもない」と論理を構築し、あるいは反論し、あるいは三段論法で証明しようとしているものと解釈すればよいのではないでしょうか。


例えばお釈迦様が
 人生は有意義に過ごしなさい
と言われたことについて、
 人生とは何ぞや
 有意義とは何ぞや
 過ごすとは何ぞや

と、徹底的に論究したものと理解すれば、お経とは何ぞやということがいとも簡単乱暴に理解することができると思うのですねぇ。
 そう理解していくと、お経はまさに今生きている「人」に展開していく論文ということになるのですが・・・。(いや違う! と言われる方もあろうが)


ではいったい何ゆえに仏教が難しいのかと思えば、実にそれは簡単なことなのですねぇ。そもそも経典というのは、最初は口伝えになっていたものを、パーリー語とかサンスクリット語などという昔のインド地方の言葉(文字)で書いていったのです。それを中国の僧(学者)が中国語に翻訳したのです。アメリカ→亜米利加 といったように音訳したり、あるいは意味を翻訳したりと・・・。

 そしてお経は日本に伝わって来たのですが、日本ではその時、翻訳をしなかったのですね。漢字で書かれていますから、およその理解はできるから、そんな手間暇をかけなかったのでしょう。しかし、日本語として読み下していくときには、テ・ニ・ヲ・ハを付け、返り点を付けないと読み下せません。

 どのようにテ・ニ・ヲ・ハを付け、返り点を付けるかによって、意味は違ってくるのですねぇ。その努力を日本ではしなかったのではないでしょうか。


私たちは正信偈を大切なものとして伝えてきました。でも、意味は解らんでもよい。そのうち感じる時が来るなんて、逃げちゃうワケですねぇ。

 そしてあげくの果てには、
 あの坊さんはお経の声が朗々としてありがたい
などと、まるでウグイスの啼きくらべの評価みたいな所に陥っていく。

 そうかと思えば、やたら字句の展開論ばかりやっていて、結局は難解な四文字熟語の羅列に終わって、何が何だか解らない。
 解らないからありがたい
などと、とんでもないことを言う方さえ出てくる。
 これでは、若い方に仏教に触れてもらおうなどというには無理があるのですねぇ。

 中にはとてもよくおぼえておられる方も居るには居るのですが、業界の中だけでは何とかニュアンスが伝わるのですが、どうも自己満足の世界のようで、一般的にはどうしても難解なのですねぇ。そして、
 あんたらの世界だけで理屈をこね回しておけば?
などと相手にされなくなったりして・・・・。

 蓮如さんが『正信偈大意』というものを残されています。しかし、私のような凡凡には、それでも煙に巻かれているみたいで、『正信偈大意』に書かれていることを繋いでみても、何やらパズルをやっているみたいになる。
 そこで、七転八倒の思いで正信偈を今の言葉に通訳してみたくなったのです。なるべく仏教用語を使わずに。そして、「あまりにも意訳過ぎて、結局は解らない」というのではなくて、正信偈の原典に可能な限り沿っていきながら読み下せるようにしてみたかったのですねぇ。
 あんた! そりゃ随分解釈が違うんじゃねーか!
とお叱りを受けるのであれば、もっと良い読み下しをお教えいただきたいものですが・・・。


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