阿弥陀経の世界


阿弥陀経が説かれた状景は、舎衛国にある祇樹給孤独の園で、お釈迦さまの前には1250人の大阿羅漢と言われる人々、舎利弗をはじめとするお釈迦様の大弟子や菩薩、摩訶薩と言われる人々、文殊師利法王子をはじめとする大菩薩、そして、その周りを数え切れないほどの無数の貧困にあふれた人々が取り囲んでいました。

 お釈迦さまは、いきなり目の前に座っている智慧第一と言われている舎利弗に向かって、極楽浄土の様子を語り始めました。

 他のお経では、何処で、どんな人たちに、そして、何のために教えを説いていくかという前提があるのですが、阿弥陀経には、何故教えを説かなければならないかという部分がありません。

 また、他のお経では、お釈迦さまの説法に対して、必ずその説法を聞いている者から、質問があり、その質問にまたお釈迦さまが解説していくという形態になっているのですが、阿弥陀経は、黙って聞いている舎利弗に対して、「舎利弗よ、・・・・・・」と説いて行くのみなのです。

 舎利弗よ・・・・と、いかにも舎利弗に向かってのみ説かれているようですが、周りを囲んで固唾を飲んで聞き入っている無数の人たちにとって、その説法はまさに自分自身の問題であったのでしょう。

 阿弥陀経を読むときには、「舎利弗よ・・・」と書かれている部分に自分の名前を充ててみなさいと喩えられてきました。


当時の社会は、不安な日常の生活で満ちていました。
 生きていくことすら大変な状態だったのです。朝一番にすることは、遠く1キロも2キロも離れた所へ、瓶を頭に載せて水を汲みに行くこと。それは子供の仕事でした。
 昼は40度を超えるような暑さ、しかし、夜は0度を下がるような寒さ。
 炊事の薪などはないのです。牛の糞を拾って来て燃料にしました。
 いつ他の民族が襲ってくるか知れない政情でした。
 疫病は蔓延し、せっかく生まれた子供も次々と死んで行ったのです。
 見渡すかぎり赤茶けた大地。それも雨期になると泥の大地に・・・。
 そのような毎日の生活の現実の中で、お釈迦さまは、夢にも見ることの出来ない世界を描き出したのです。


舎利弗よここから西の方角に向かって10万億の国を越えて行ったところに一つの世界がある。名付けて極楽という。その国に仏がおられる。阿弥陀と名乗られている。今もまさに人々の本当の幸せを願って真実の道を説かれ続けておられる。舎利弗よ、なぜその国を極楽と言うか。そこに生きる人々には、一切の苦しみはないのだ。一切の楽を受けているのだ。だから、その国を極楽と言うのだ。

と、いきなり語り始めているのです。

 舎利弗よ、その極楽の世界には、七重の柵と七重の覆いと七重の日陰を作ってくれる並木がある。それらは全て宝石で飾られている。

 舎利弗よ、極楽の世界には、七宝の宝石で出来た池があり、八功徳水という清らかな水があふれている。池の底には金の砂が敷き詰められている。池の中には車輪のように大きな蓮華の花が咲き、青色の花からは青色の光が放たれ、黄色の花からは黄色の光が放たれている。

 舎利弗よ、その国ではいつも清らかな音が聞こえており、いつも天から曼荼羅というきれいな花が降っている。

 舎利弗よ、この国にはきれいな鳥がたくさん舞っており、きれいな声でさえずりかけている。この国の人はこの鳥たちの声を聞いて、心安らかに過ごしている。

舎利弗よ、この国にはいつもそよ風が吹いており、木々の葉を揺らし、暑くもなく寒くもなく、木々の揺れる音を聞いて、心安らかに過ごしている。


当時の人たちにとっては、絶対に手に入らない切実な願望だったのです。
 アフガニスタンでの空爆の跡のような生活の中で、極楽の世界はまるで垂涎のような世界だったのです。
 しかし、今の日本人の中では、阿弥陀経に描かれた世界はもう十分手に入れることが出来ているのです。
 栓を捻ればお湯が出るし、水は消毒滅菌された水道、有り余る美味のご馳走、警備の行き届いたマンション、・・・・・。
 テレビもあればCDもある。何でも揃うスーパーもあれば、遠くへ出かけるには電車も車も・・・。
 数えればそれは阿弥陀経の世界に描かれている姿そのものに見えます。
 しかし、よく考えてみると、人間の欲望は際限がないのです。その際限のない欲望を維持するために、新たな苦痛が待っているのです。
 電気代を払うため、携帯電話代を払うため、自動車の維持のため、うまいものを食うため・・・・。
 結局私たちは欲の代償を求めて、金こそ第一の世界という泥沼の中でもがいているです。
 苦労しながらも、その生活水準を落とすわけにはいかない。
 一度味わった贅沢は元に戻すことは不可能に近いのです。
 テレビはその欲に目をつけて、次々と次の欲望を目の前に示して誘惑する。
 テレビは魔物かもしれませんねぇ。
 疑城胎宮や懈慢界が今の私たちの生活の場なのですねぇ。


疑城胎宮や懈慢界というのは、満ち足りたように思える世界なのですが、実はそこから脱却することが出来ず、次々と欲が雪だるまのように膨らんで、その雪のために、自らが身動きできなくなる世界のことを言っています。
 ちょうど麻薬を注射して、心地よい気持ちに浸っていると、今度はもっと量を増やさないと効かなくなり、それを繰り返していくうちに廃人となっていくのとそっくりな世界なのです。
 極楽浄土と疑城胎宮は、ちっよと見ではそっくりなのです。
  酒は美味いし ネエちゃんはきれいし・・・
  わしが死んだら、そんな所へ行けるように拝んでくれ
と言った方がおりましたぞ。
  できるか! そんなことが!!

極楽は安定した世界であるのに対して、疑城胎宮は底なし沼のように苦るしみに飲み込まれていく世界なのです。
 本当の極楽世界に往生するためには、称名念仏しかないのだと阿弥陀経を通してお釈迦さまは説かれています。
 が、それは大変難しいかも知れないし、信じようとしないだろうね、とも説かれています。
 人間は、南无阿弥陀仏と称えるだけで極楽往生出来るなんてとても信じないのですから。
 それよりも、占いや祈祷や、つまり、人よりも幸せになるために、人を蹴落としてでもという、それも、実現するかどうかの保証もないものを実行したがるのです。


信じる(信心)とは、一心なり。二心にあらず。
 と親鸞さまも言い切られているのに、私たちは、あっちもこっちもと、二股も三股もかけて、そのうちどれかに引っかかるかもしれないと、まるで宝くじを何枚も買い求めるように、あちらのお寺、こちらの神社とやっています。

 とても一心一向に念仏なんてしませんよねぇ。

 滝に打たれれば、何かやったような思いにもなるし、多額の寄付をすれば、見返りとしての幸せの切符が手に入ったように思えたり・・・・。
 念仏を称えるだけでは、何とも手応えがなくて、はたまた呪文のように思えて・・・・。


私たちが「やった。できた。」と思うのは、自分の物差しでの測り方であって、続行不可能なこと(途中挫折)かも知れないし、単なる独りよがりかも知れません。
 でも、念仏を本当に理解して称える事は、いつでも続けて実行出来ることですし、「あんたら、それよりほかには出来んじゃろうが・・・」と言われているんです。
 その念仏すら言えない。
 阿弥陀経は、共なる命を生きる世界を描きながらも、難信の法と説き、これを実行するのは甚だ難しいとも説いています。
 南无阿弥陀仏って、
 はいわかりました。命は大切だと言い切れる人間になります。

 ということなんですが、それが言えんのです。


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