歎異抄への誘い


 お釈迦様はインドの国の小さな王族、釈迦族の皇太子でした。
名前をゴータマ・シッダルターと言いました。ある時、城の外を眺めていると、赤ちゃんと、老人と、病人と、お葬式の行列に出合いました。四門出遊という有名な話です。

 城の内は裕福な世界でしたが、城の外は貧しい人々が暮らす世界(アウトカーストの世界)でした。ゴータマ・シッダルターは、「人間はどうして生老病死という苦しみを味わわねばならないのだろうか」という疑問を解決したいと思い立ちました。

 美しいお妃や、かわいい子どもを残して城を出て出家し、バラモンの教えに沿って厳しい修行を積み、聖者となって人々を救おうとしたのです。

 長い年月、肉体的にも精神的にも大変な修行を重ね、骨川筋右衛門のようになって沙羅双樹の下にへたり込んでしまったのです。牧畜をしていた家の娘が、そんな姿を見て、乳粥を彼に差し上げました。

 その時、ゴータマ・シッダルターは悟りを開いたのです。それは、「生きとし生けるものは、生老病死という現実から逃れることはできないのだ」ということでした。

 そして、「逃れようと、もがけばもがくほど、自然の摂理に逆らって、苦しみの世界に落ち込んでしまうのだ」。「世界は諸行無常なのだ。そのことを納得していくことによって、真の安らぎが生まれるのだ」とさとったのです。

 困ったことに出くわすと、私たちはオロオロと不安が一杯になるのですが、「エーイ! どんと来い!!」と腹をくくってしまうと、もう何も怖くはない。「涅槃寂静」と言うことでしょうか。仏教は死者への弔いではなく、人生を前向きに正しく生きて(共に生きる)いく為の智慧として出発したのです。そのことを親鸞聖人は改めて再認識をされました。そして、浄土真宗と名乗られました。

 しかし、親鸞聖人没後、その精神から外れていく人々が出始めたのです。
 親鸞聖人の息子の善鸞は、親鸞聖人が京都に居られるとき、関東で教えを広めていたのですが、「私は、父の親鸞から、念仏に勝る浄土往生の秘法を密かに教えてもらっている」などと言い、大きな混乱を起こしましたし、あるところでは「浄土往生の為の絵譜」などが出されることもありました。自分勝手に解釈をし、そこからまた解釈が間違った方向へ発展するという事態が起こってきたのです。

 親鸞聖人が釈迦と同じような体験(比叡山での修行)のなかから、「お釈迦様の原点に戻ること」と再認識されたのに、真宗が違った方向へむき始めたことに危惧して、「異なることを嘆くことば」として、唯円房という方が、自分が聞いてきた親鸞聖人の直接の言葉を思い比べながら記されたのが「歎異抄」と言うわけです。

 真宗門徒にとって歎異抄とは、いわば警報機のような存在なのです
 以下、田坂恵行さんの解説をも参考にしながら、歎異抄を読んでみました。


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