歎異抄 付録部


後鳥羽院御宇、法然聖人他力本願念仏宗を興行す。于時、興福寺僧侶敵奏之上、御弟子中狼藉子細あるよし、無実風聞によりて罪科に処せらるる人数事。
一 法然聖人並御弟子七人流罪、また御弟子四人死罪におこなわるるなり。聖人は土佐国番田という所へ流罪、罪名藤井元彦男云々、生年七十六歳なり。
親鸞は越後国、罪名藤井善信云々、生年三十五歳なり。
浄円房備後国、澄西禅光房伯耆国、好覚房伊豆国、行空法本房佐渡国、幸西成覚房・善恵房二人、同遠流にさだまる。しかるに無動寺之善題大僧正、これを申しあずかると云々 遠流之人々已上八人なりと云々
被行死罪人々。
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長之沙汰也。
親鸞改僧儀賜俗名、仍非僧非俗。然間以禿字為姓被経奏問畢。彼御申状、于今外記庁納云々
流罪以後愚禿親鸞令書給也

右斯聖教者、為当流大事聖教也。
於無宿善機、無左右不可許之者也。
釈蓮如御判


【現代語意訳】
 後鳥羽上皇が院政を敷かれていたころ(1198~1222)、法然上人の「他力本願念仏宗」の教えは、干天の慈雨のように、多数の民衆のなかに浸透し、盛んになっていきました。
 旧仏教教団の僧徒たちは、法然教団の隆盛に脅威を感じて「専修念仏」の批判を始めたのです。
 元久元年(1204)10月、比叡山の衆徒が天台座主に対して「専修念仏の停止」を訴え出ました。
 朝廷はこの意向を取り上げて、直ちに法然教団に戒告を出したので、同年11月、法然教団から朝廷へ「七箇条起請文」が提出されました。
 翌元久2年(1205)10月、南都興福寺から、「専修念仏の停止の奏状」が朝廷に出され、大事件に発展しました。
 事実無根との風評の中でしたが、仏法の敵、朝廷の敵として刑罰が実行されたのです。
 その人々を記録しておきますと、法然上人ほか七人のお弟子が流罪に。また、お弟子四人が死刑になりました。
 法然聖人は土佐の国(高知県)へ藤井元彦という俗名で流罪に。76歳の高齢でした。
 親鸞聖人は越後の国(新潟県)へ藤井善信の俗名で流罪。35歳でした。
 浄聞坊は備後国(広島県)。澄西禅光房は伯耆の国(鳥取県)。好覚坊は伊豆の国(神奈川県)。行空法本房は佐渡の国(新潟県)へ流されました。
 幸西成覚房・善恵房の二人も流罪に決定しましたが、無動寺の善題大僧正が身柄を預かられることになり、流罪は合計8人でした。
 死刑になられた人たち。
一番 西意善綽房。二番 性願房。三番 住蓮房。四番 安楽房。
 以上の罪科は、二位法院印尊長が裁定しました。
 刑の執行にあたって、親鸞聖人は還俗を強いられ、俗名を付けられました。親鸞聖人は、僧でもなく、俗でもないというので、「禿」の字を自分の姓とする旨を朝廷に上奏し、許可を受けられました。
 その時の文書は外記庁に保管されていると聞きました。流罪以後は、自から愚禿親鸞と署名されるようになりました。
 右の聖教は、浄土真宗の大切な聖教とします。真剣に仏法を聞く気のない人には、みだりに読むことを許可してはならないものです。


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