歎異抄 第17条


辺地の往生をとぐるひと、ついには地獄におつべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。学生だつるひとのなかに、いいいださるることにてそうろうなるこそ、あさましくそうらえ。経論聖教をば、いかようにみなされてそうろうやらん。信心かけたる行者は、本願をうたがうによりて、辺地に生じて、うたがいのつみをつぐのいてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまわりそうらえ。信心の行者すくなきゆえに、化土におおくすすめいれられそうろうを、ついにむなしくなるべしとそうろうなるこそ、如来に虚妄をもうしつけまいらせられそうろうなれ。


【現代語意訳】
 「辺地往生した人は、結局は地獄へ落ちるであろう」ということについて。
 この根拠はいったい、どこにあるというのでしょうか。
 学者ぶった人が言い出しただけに、情けないことです。
 浄土教の経論や聖教を、どのように理解なさったのでしょうか。
 他力の信心が欠けた念仏者は、第十八願を疑う心を持ちながら往生するので、一度辺地に生まれ変わり、疑った罪ををつぐなった後に、自分の疑いの誤りに気がついて回心し、真実報土に往生してさとりを開くのだと聞いています。
 真実信心の念仏者が少ないので、阿弥陀如来は方便の浄土を仮設になり、多くの自力疑心の行者をその化土(辺地)へすすめ入れて再教育されるのですが、辺地へ生まれることが地獄行きへつながるなどというのは、阿弥陀如来を嘘つきにしてしまうようなものではありませんか。


旧ホームページからの移転

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました