歎異抄 第16条


 信心の行者、自然に、はらをもたて、あしざまなることをもおかし、同朋同侶にもあいて口論をもしては、かならず回心すべしということ。この条、断悪修善のここちか。一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。一切の事に、あしたゆうべに回心して、往生をとげそうろうべくは、ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば、回心もせず、柔和忍辱のおもいにも住せざらんさきにいのちつきなば、摂取不捨の誓願は、むなしくならせおわしますべきにや。くちには願力をたのみたてまつるといいて、こころには、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。しかれば念仏ももうされそうろう。これ自然なり。わがはからわざるを、自然ともうすなり。これすなわち他力にてまします。しかるを、自然ということの別にあるように、われものしりがおにいうひとそうろうよし、うけたまわる。あさましくそうろうなり。


【現代語意訳】
 「他力信心の道を歩んでいる者が、衝動のままに腹を立てたり、悪行をしたり、教団の仲間と口論した場合には、必ず回心しなければならない」という人たちがいます。
 この人たちの主張は、まるで「悪を廃して、善を修める」という自力の修行ではないかとさえみえます。
 本願を信じて念仏する人にとって、回心ということは、ただ一度だけあることです。
 その回心というのは、今まで、弥陀の本願力回向のいわれを本当に理解していなくて念仏を称えている人が、如来さまからの智慧をいただいて、今までのような自力の心では往生出来ないと思い返し、自力を捨てて、弥陀の本願をたのみ、他力におまかせするようになったことを指して回心というのです。
 あらゆることにつけて、朝から晩まで回心し続けて往生を遂げるというのならば、人のいのちは出る息が入るのを待たずに終るといわれるほど、無常なものですから、回心して「やわらいだ、穏やかな心境」に到達できる前に命が終わったなら、救われないことになり、「摂取不捨の誓願」がウソになってしまうのではないでしょうか。
 口先だけで「誓願をたよりにしている」と言いながら、心中では「いくら悪人を助けるという不思議な力を持つ願だからといっても、実際には善人をこそお救いになるのだろう」と、誓願を疑い、他力をたのむ信心を欠いて、ついには辺地にしか往生できないということは、最も嘆げかをしいことにおもいます。
 (他力をたのむ)信心が決定したら、往生は弥陀のはからいによるものですから、自分の意志や判断は必要ありません。悪い心が起きるにつけても、ひたすらに本願力をたよりにするのですから、願力の自然のはからいによって「やわらいだ、穏やかな心境」にもなるでしょう。
 何事につけ、往生に関することについては、自己流の小賢しい考えを持たないで、しみじみと弥陀のご恩の深重なことを思いおこせばいいのです。
 そうすれば、お念仏も自然に称えられるようになります。
 これが自然というものです。
 自分の判断やはからいを交えないことを自然といいます。
 これが他力ということなのです。
 それなのに、自然ということが、そのほかに別に存在するかのように知ったかぶりをする人があると聞いていますが、本当に情けないことです。


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