煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の道なるがゆえなり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。おおよそ、今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きわめてありがたきあいだ、真言・法華を行ずる浄侶、なおもて順次生のさとりをいのる。いかにいわんや、戒行恵解ともになしといえども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらわれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにてはそうらえ。この身をもってさとりをひらくとそうろうなるひとは、釈尊のごとく、種種の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益そうろうにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とはもうしそうらえ。『和讃』にいわく「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける」(善導讃)とはそうらえば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまわざれば、六道に輪回すべからず。しかればながく生死をばへだてそうろうぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいいまぎらかすべきや。あわれにそうろうをや。「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならいそうろうぞ」とこそ、故聖人のおおせにはそうらいしか。
【現代語意訳】
「煩悩をすべてそなえた身体のままで、現生でさとりを開くこと」というなどと言うことはあり得ないことです。
即身成仏は真言密教でのことで、三密修行が成就して到達する境地なのです。
六根清浄は法華一乗(天台宗)の説くところで、四安楽業の修行の結果、身に感じとる功徳なのです。
これらはすべて難行の道で、すぐれた修行者だけが完成できる真如を観じて得るさとりなのです。
来世に浄土に生まれてさとりを開いて仏になるのというが、浄土真宗の他力の教えであり、信心決定の者の得る果報です。
これは易行という、私達のありふれた凡夫の歩むことができる道であり、善人でも悪人でも区別なく入れる道なのです。
およそこの世に生きている限り、煩悩・悪障を断ち切ることは不可能なことで、戒律を守って、真言・天台の修行をしている清僧でさえも、来世のさとりを祈っておられます。
ましてや戒律を守り、智慧を研いて仏法を理解し実行することができない凡夫の身が、この世でさとりを開くことはできないのですから、弥陀の本願の大船に乗せてもらって、迷いの苦海を渡り、浄土の岸に着くことが出来れば、煩悩の黒雲は晴れ、法性真如の月があらわれ、阿弥陀如来の智慧の光明とに一体となって、衆生を救済出来るようになったときこそ、それが本当のさとりというものなのです。
即身成仏出来ると言って いる人は、釈尊のように、相手に応じて様々な姿を変現し、仏の特徴である三十二相や、八十髄好相を兼ね備えて、衆生に説法されたり、利益を与えることが出来るとでも言うのでしょうか。
こういう姿こそ即身成仏の手本といっても良いでしょうが。
親鸞聖人は高僧和讃で、「金剛のような堅い信心が決定する時が来てこそ、弥陀の光明は、その行者を照らし守ってくださるのであって、もはや迷いの生死をくりかえすことがなくなるのだ」と言われています。
他力の信心が決定した時にこそ、阿弥陀仏の光明の中におさめとられて、捨てられることがないのですから、六道に輪廻することもありません。
ですから永遠に生死を離れることができるというのです。
このように理解することを「さとる」というような言葉を使って惑わしているのというのでしょうか。
まことに哀れなことです。
「浄土真宗は現世では阿弥陀仏の本願を信じ、真実報土に至ってから、さとりをひらくと教えられています」
と、今は亡き親鸞聖人は仰ったのですが。
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