歎異抄 第14条


 一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ。この条は、十悪五逆の罪人、日ごろ念仏をもうさずして、命終のとき、はじめて善知識のおしえにて、一念もうせば八十億劫のつみを滅し、十念もうせば、十八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは、十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか、滅罪の利益なり。いまだわれらが信ずるところにおよばず。そのゆえは、弥陀の光明にてらされまいらするゆえに、一念発起するとき、金剛の信心をたまわりぬれば、すでに定聚のくらいにおさめしめたまいて、命終すれば、もろもろの煩悩悪障を転じて、無生忍をさとらしめたまうなり。この悲願ましまさずは、かかるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもいて、一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり。念仏もうさんごとに、つみをほろぼさんと信ぜば、すでに、われとつみをけして、往生せんとはげむにてこそそうろうなれ。もししからば、一生のあいだ、おもいとおもうこと、みな生死のきずなにあらざることなければ、いのちつきんまで念仏退転せずして往生すべし。ただし業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあい、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしておわらん。念仏もうすことかたし。そのあいだのつみは、いかがして滅すべきや。つみきえざれば、往生はかなうべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業をおかし、念仏もうさずしておわるとも、すみやかに往生をとぐべし。また、念仏のもうされんも、ただいまさとりをひらかんずる期のちかづくにしたがいても、いよいよ弥陀をたのみ、御恩を報じたてまつるにてこそそうらわめ。つみを滅せんとおもわんは、自力のこころにして、臨終正念といのるひとの本意なれば、他力の信心なきにてそうろうなり。


【現代語意訳】
 「一念の念仏は八十億劫ものあいだ輪廻し、迷い続けなければならないほどの重い罪科を滅すと信ずべきである」ということ。
 これは、十悪・五逆といった重罪を犯した者が、臨終のときに初めて善知識の教えによって、一声の念仏を称えたなら、八十億劫の罪科が消え、十声の念仏を称えたならば、八百億劫の罪科が消えて、浄土に往生できると言われたところから出ているのです。
 これは、十悪・五逆の罪が、いかに重いかを知らせるために、一念とか十念と言ったので、その真意は、念仏の持つ滅罪の利益を知らせるためにあるのです。
 しかしこの教えは、とても私達が信じる事が出来ないようなことなのです。
 その理由は、弥陀の光明に照らされて包み込まれて守られるのであるから、一念発起したときに金剛のように堅固な信心を頂くのであって、必ず仏になれると定まった「正定衆」の位に納めとられるのであって、この世の命が終われば、それまでの煩悩も悪業もすべて功徳に転換し、不生不滅のさとりに達っせられるのです。
 もしこの弥陀の悲願がなかったなら、煩悩具足の私達は、どうして迷いからさとりの世界から逃れることが出来るかという思いばかりなのです。
 そう思えば、一生の間称える念仏は、すべて如来の大慈悲への報恩謝徳の念仏であると思うべきなのです。
 念仏を称えるたびに罪が減っすると信じているのは、すでに自分の力で罪を減っして、往生しようと励んでいることになるのです。
 もしそうだとしたら、一生の間、思うことは全て死ぬか生きるかということのおののきばかりなのですから、臨終のその時まで念仏申すことをを止めないで、往生していくことが大切なのです。
 しかし、原因と結果はいろいろな場合があるのですから、不慮の事故にあったり、病気の苦痛で我を失い、心を静めてお念仏を称えることも出来ずに死ぬこともあるでしょう。
 そんな時は、どうして罪を減っすることが出来るのでしょうか。
 罪が消えなけりば、浄土への往生は不可能なのでしょうか。
 これに対して摂取不捨の弥陀の本願をたのみ、すべてをおまかせすれば、たとえ思いがけないことで罪を犯すことがあって、念仏を称えることが出来ずに、いのちを終ることとなっても、ちゃんと浄土へ往生が出来るのです。
 お念仏を申すということについては、たとえ死期が近づいてきた時であっても、救いとって下さるという阿弥陀仏の御恩に感謝する念仏でなければならないのです。
 罪を滅っしようと思って称える念仏は、自力をたのむ心なので、臨終の時のことだけを思っている祈る人たちの本意なのですから、他力の信心ではないのです。


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