歎異抄 第10条


「念仏には無義をもって義とす。不可称不可説不可思議のゆえに」とおおせそうらいき。そもそもかの御在生のむかし、おなじこころざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし、信をひとつにして心を当来の報土にかけしともがらは、同時に御意趣をうけたまわりしかども、そのひとびとにともないて念仏もうさるる老若、そのかずをしらずおわしますなかに、上人のおおせにあらざる異義どもを、近来はおおくおおせられおうてそうろうよし、つたえうけたまわる。いわれなき条々の子細のこと。


【現代語意訳】
 他力のお念仏には、自分の分別・はからいを交えないのが正しいのです。
 なぜなら、お念仏は人間の浅はかな知恵では測ることが出来ないものなのだと、親鸞聖人は言われました。
 親鸞聖人が生きておられた頃、同じ志を持って、はるばる京都まで親鸞聖人に出合に来られ、信心の方向を親鸞聖人と一緒にされ、未来の浄土往生をしようとした人々は、聖人と同じようにそのいわれを受けられたのに、その方々から聞かされているはずの人々が数多くありましたが、ちかごろでは、親鸞聖人の教えにない違ったことを主張される人が多くなったと聞かされます。
 それらの異義がとんでもないということを詳しく述べたいと思います。


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