「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまいりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり。いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じそうらえ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまいりたくそうらわんには、煩悩のなきやらんと、あやしくそうらいなまし」と云々
【現代語意訳】
「念仏を称えていますが、躍り上がって喜ぶほどの心が湧いてこず、また、急いで浄土へ生まれたいと願う心が起きて来ないのは、いったいどうしたことでございましょうか」と、お訊ねしたところ、
親鸞も同じ疑問がありましたが、唯円房もそうでしたか。よくよく考えてみると、天に躍り、地に踊るほどの喜びであるはずなのに、これではまさに地獄行きだということでしょうね。
本当は喜ぶべきことなのに、それが喜べないというのは、やはり煩悩があるという証拠ですね。
しかし、阿弥陀仏は、そんなことは百も承知の上で、私達を執着心の固まりだと言っておられる上での事ですから、阿弥陀仏の救い取りたいという願いは、こんな私達のためにあるのだと言う事を知ると、改めて力強く感じることです。
浄土へ急いで行きたいという気持ちがないくせに、少しばかり疲れたということがあれば、もう死ぬのではないか心細く思うのも、執着心という煩悩がそうさせているのです。
人間というものは、昔から今日に至るまで、あくせく苦しんで、悲しいことばかり多いこの世を捨てることが出来ず、まだ経験したことのない、満ち足りた安心出来る世界へは行きたくないとと言うことは、私達の執着心が激しいということの証拠なのですね。
いくらこの世に未練があっても、この世との縁が尽きて、どうしようもなくて命が終わる時に、お浄土に生まれさせていただきましょう。
急いで仏の国に生まれたいと思えない私たちを、阿弥陀仏は哀れと思ってくださっているのです。
だからこそ、阿弥陀如来の大悲・大願は、ますます私にとっては頼りになるものであり、浄土へ行けると言うことは決定していると言うことなのです。
踊躍歓喜の心があって、急いで浄土に生まれたいと思うようなら、かえって私には煩悩がないのではないかと疑われたらいかがてしょうか。
と、お話になられました。
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