善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。
【現代語意訳】
善人でさえも極楽往生できるのですから、まして悪人が往生出来ないはずがありません。
ところが世間の人は、「悪人でさえ往生するのだから、どうして善人が往生できないことがあろうか」と言っています。
この言葉は、一応正しいように聞こえますが、阿弥陀仏の本願の意味からは全く逆なのです。
その理由は、自分の力で何事も解決しようとする人は、一途に他力をたのむ心が欠けていますから、阿弥陀仏の本願の意味とは違うのです。
しかし、自分の力にたのむ心をやめて、阿弥陀仏の救いの誓いにお任せすば、真実の浄土に往生することができるのです。
煩悩具足の私たちは、どんな修行を重ねたとしても、人生の様々な苦しみや悩みから解き放たれることが不可能なのを、阿弥陀如来は哀れと思われて、救おうという本願をたてられ、もがき苦しんでいる人(悪人)を成仏させることにが本来の目的なので、他力しかたのみのない私達が、往生していける正しい因縁を持っているのです。
だから、善人でさえも往生できるのですから、ましてもがき苦しんでいる者が往生できない理由などないのです。
とお話になられました。
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