鸞聖人の作れた和讃の中に、愚禿悲歎述懐というのがあります。
私は、このご和讃が私達の姿を端的に表されているものだと、いつもいつも思い知らされるのです。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり
かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ
天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす
外道梵士尼乾志に こころはかわらぬものとして
如来の法衣をつねにきて 一切鬼神をあがむめり
かなしきかなやこのごろの 和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして 天地の鬼神を尊敬す
末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の
輿かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり

この写真は真宗大谷派(東本願寺)の北東の角の姿です。土塀に5本の筋が入っているのは門跡寺院の象徴です。
そして、北東の角が切り欠いてあるのは、鬼門の方角を忌むための呪いなのです。
親鸞聖人が悲歎されたそのものを、親鸞以後の坊主たちが、親鸞の最も嫌ったことをやってしまったのです。
親鸞聖人が悲歎されたそのものを、親鸞以後の坊主たちが、親鸞の最も嫌ったことをやってしまったのです。
権力に迎合していく国家鎮護仏教に対して、民衆の力湧き出でる存在として、生涯を尽くされた親鸞の思いとは裏腹に、門跡寺院となる事によって宗門の延命・存続がはかられてきました。
最も忌むべき習俗しとして、良時吉日を選び、天神地祇を拝する人の生き様を悲歎され、その習俗や迷信を行うことが、どれほど人を不幸せにし、迷いの根本であるかと嘆かれた親鸞の思いとは正反対に、鬼門という迷信習俗を認める建築をしてしまった真宗の姿です。
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