最要鈔


「大無量寿経」(巻上)言
設我得仏・十方衆生・至心信楽・欲生我国・乃至十念・若不生者・不取正覚・唯除五逆・誹謗正法。
同願成就文「経」(大経巻下)言
諸有衆生・聞其名号・信心歓喜・乃至一念・至心廻向・願生彼国・即得往生・住不退転・唯除五逆・誹謗正法。
この願成就の文に「信心歓喜乃至一念」とらのたまへり。
この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。
この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。
凡夫のまことのこゝろとおぼしきは、一念おこすににたれども、またくすゑとほらず。
しかれば光明寺の御釋(序文義)にも「たとひ清心をおこすといへども、水に画がけるがごとし」とみえたり。
やぶれやすきこといふにおよばず。
往生ほどの一大事をやぶれやすき凡情をもて治定すべきにあらず。
しかれば御釋(玄義文)「共発金剛志・横超断四流・願入弥陀界海・帰依合掌禮」とらのたまへり。
金剛のこゝろざしをおこすといふは、いまの願成就の信心歓喜の心なり。
わがかしこくて信ずる心にあらず。
聞其名号という聞は、善知識にあふて如来の陀力をもて往生治定する道理をきゝさだむる聞なり。
おなじ「経」(大経巻下)に「其仏本願力・聞名欲往生」ともみえたり。
またこの「経」の流通にも「其有得聞・彼仏名号」とらあり。
宗師の御釋にも「弥陀智願海・深広無涯底・聞名欲往生・皆悉到彼国」とらいへり。
また祖師鸞聖人の御釋にも「本願の生起本末をきくべし」とみえたり。
経釋すでに聞をもて詮要とせられたり。
よくきくところにて往生の心行獲得する條顕然なり。しるべし。
また「教行信証」に曰。
憶念弥陀仏本願・自然即時入必定・唯能常称如来号・応報大悲弘誓恩。
この文のこゝろは、弥陀仏の本願を憶念するとき、たちどころに必定にいるとみえたり。
必定といふは、すなわち四十八願の中の第十一の必至滅度の願なり。
自然といふは如来の本願力をもて往生を治定せらるゝこゝろなり。
来迎をたのまず臨終を期せざる義あきらけし。
しかれば経釋ともに本願の生起本末をきゝうる時分にあたりて、往生を得証する條文にありてあきらけし。
ひとみなおもへらく、果縛の穢体やぶるゝときならでは往生の行業成ずべからずと。
しかるにその條僻案なり。
そのゆえは善悪の二報しからず。
まづ法性のさだむるところの悪業を平生のとき造作する時分に三悪必堕の業因最後終焉にさきだちて治定するにあらずや。
造悪につきて生処臨終にあらずといへども治定する義必然ならば、善悪は相対の法なれば、善業もまたあひはかるべからず。
これによりて往生の心行を獲得すれば、終焉にさきだちて即得往生の義あるべし。
仮令身心のふたつに命終の道理あひわかるべきか。無始よりこのかた生死に輪廻して出離を求しならひたる迷情の自力心、本願の道理をきくところにて謙敬すれば心命つくるときにてあらざるや。
そのとき摂取不捨の益にもあづかり、住正定聚のくらいにもさだまれば、これを即得往生といふべし。
善悪の生処をさだむることは心命つくるときなり、身命のときにあらず。
しかれば臨終を期すべからざる道理文証あきらけし。
信心歓喜乃至一念のとき即得往生の義治定ののちの称名は仏恩報謝のためなり。
さらに機のかたより往生の正行とつのるべきにあらず。
「応報大悲弘誓恩」と釋したまへるにてこゝろうべし。
大概これをもて思釋すべきなり。
                                 覚如述 寂圓書

現代意訳
大無量寿経」(大経巻上)に次のように述べられています。
 もし私が覚りを得るならば、あまねく世界中の人々が、心から信じて、仏の国に生まれたいと欲するならば、10回でも良いから、そうありたいと念じなさい。もし、生まれる者がなかったら、私は覚りを得たとは言えないことになる。ただし、五つの罪悪を為す者と、この正しい教えを誹謗中傷する者は除くが。と。
 また大経(大無量寿経)巻下の「願成就文」には、次のように述べられています。
 諸々の衆生あって、その名号(阿弥陀仏の願いの声)を聞き、まことの心で喜び、一度でもうなづき、心から真向かって、仏の国に生まれたいと願うならば、たちまちにその世界に生まれ行き、揺るぎなき自己の確立が保たれる。ただし、五つの罪悪を為す者と、この正しい教えを誹謗中傷する者は除くが。と。
 この願成就の文に「信心歓喜乃至一念(まことの心で、一度でもうなづき喜ぶ)」と述べられています。
 この信心という言葉の意味は、「まことの心」と読むのですから、それは「凡夫の迷っている心」ではなく、「全くの仏の心」ということなのです。
 だから、この「仏心」が、凡夫(迷い多き人間)に授けられることを、「信心」というのです。
 凡夫の身において、「まことの心」とは言うけれど、その思いを起こすのは、いかにもまことの心に似ているようだけれども、それは全く保ち通せるものではないのです。
 そのことは、光明寺の住職の説明(御釋)に書かれている中にも、「例え清らかな心を持とうとしていても、水に絵を画くようなものである直ぐにかき消されてしまうもののようだ)」と言われています。
 破れやすいことは言うまでもないことなのです。
 往生(大事に生きる)ということほど、一番大切なことを、破れやすい迷い多き者の一時の感情で判断することではないのです。
 というのは、御釋(帰三宝偈)では、「共に金剛のような堅固な志を起こし、四つの流れ(欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流のこと。また、生・老・病・死のこと)を超び越えて、命の尊さを讃える世界に入る事を願い、はいそうでしたと手を合わせて行きなさい」と述べられています。
 金剛の志を起こすということは、願成就文で言われている、仏心を授けられたことを喜びとするということなのです。
 自分が賢く知識があっての「信ずる心」ではないのです。
 「聞其名号」の「」というのは、善き先生に出会って、如来の絶対他力をもって私たちが往生できるのが決まるのだという道理を聞きとっていく」なのです。
 大経(大無量寿経)の巻下に「其仏本願力・聞名欲往生(仏の本願力とは、仏の名を聞き、往生を願わば)」とも記されています。
 またこの「(大無量寿経)」の流通のところにも「其有得聞・彼仏名号(かの仏の名号を聞き得る事があれば)」ともあります。
 宗師(善導和尚)の説明にも、「阿弥陀の働きかけてくる智慧の海は、深く広く、涯も底もない。弥陀の名前を聞いて、往生したいと欲すれば、皆ことごとく仏の国に到る」とも言っておられます。
 また親鸞聖人のご説明にも、「本願の起きて働きかけてくるということの根本は何かということを聞くことが大切です」とあります。
 (教え)は、「聞く」ことが最も大切なのだと言われました。
 よく聞くことが、往生のための心行を獲得することになるということが明らかなのです。
 そのことをよくよく理解することです。
 また「教行信証」に述べられていることは、
 「弥陀の本願を憶念すれば、自ずとたちまちに仏の世界に入ることが定まるのだ。ただ、よく常に如来のみ名を称えよ。如来の真なる願いと、必ず救い取ると誓われた御恩に報い応えよ」と述べられています。
 この文の意味は、弥陀仏の本願を思い念ずるとき、たちどころに必定に入ると解釈できます。
 必定というのは、四十八願の中の第十一の清らかな世界に必ず到るという願のことです。
 自然というのは、私の思いではなく、如来の本願の力をもって往生が定まるという意味です。
 死ぬ時に、迎えに来てもらうことを頼むのではなく、臨終の時までにということを明らかにされたのです。
 つまり、経文の理解によれば、本願の生きて働く所以を聞きとる時、往生を得るということが証明されているのが明らかなのです。
 人はみな、けがれ多き肉体を捨てる時でなければ、往生(極楽浄土に生まれる)ということは出来ないと思っているのです。
 しかし、それは少し考え方が違うのです。
 その理由は、善悪という二つの考えにあるのです。
 仏法の定める悪業を、普段の生活の中で作り出すとき、三悪(地獄・餓鬼・畜生)に必ず落ちていくということが、死ぬまでに先立って決まってしまうことではないのです。
 造悪について、命の終りにあたって決まるということが必然であるならば、善と悪は相い対して裏表に存在するものであるから、善業を行うということもまたどうこう云々することではないのです。
 このことは、往生のための心行を獲得すれば、終焉を待たずに即得往生のができるという事なのです。
 仮にいただいている身と心に、命の終るという道理が本当にわかるのでしょうか。
 世界が始まって以来、生と死に輪廻して出離を求め、迷い多き凡夫の自力の心は、本願の道理を聞いて、謙虚に受けとめていく時が、心の命の終わるときというのでしょうか。
 本願の道理を聞くことは、摂取して捨てないという本願の力に受け止められていくことであり、正定聚(まさしく定まった人々)の位に置かれるということが定まるのであり、このことを「即得往生」と言うのです。
 善悪の生き様が定まるのは、心の命が定まる時であり、身体の命の尽きる時ではないのです。
 つまり、往生のことは、臨終の有りようを期待することではないという道理が明らかになってくるでしょう。
 「信心歓喜乃至一念」の思いをしっかりと心に獲得し、「即得往生」が定まったですから、そのあとの称名念仏は、本願の力に対しての「仏恩報謝」のためなのです。
 その上に、さらに称名念仏することが、往生のための要因としての正しい行いなどと勧めるべきことではありません。
 「応報大悲弘誓恩(必ず救い取っていくと誓われた仏のご恩に報い応えていく生きざま)」と説かれていることをしっかりと心得るべきです。
 もうこれにて解るべきでしょうし、よくよく思いめぐらすべきですよ。

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