大無量寿経 48願とは


 真宗の正依の経典の第一にあげられているものです。観無量寿経・阿弥陀経と、この大無量寿経を浄土三部経と言っています。

 大無量寿経の要となっているのが、以下の読み下し文である四十八願と言われている部分です。四十八願とは、法蔵菩薩が仏になる時に建てられた誓いの願であり、「この願が達成出来なければ、私は仏には成り得ない」と誓われたものです。本願とも悲願とも誓願とも大悲とも言い換えられます。

 裏返せば、人間世界の中では、この四十八の悩み、あるいは欲、あるいは悲壮な叫びがあるとも言われています。
 真宗では、何も出来ない私であっても、どうぞ助けて欲しいと、南無阿弥陀仏を称えることは出来ます。称名念仏すれば、必ず助け取ると誓われた第十八の願をひたすら拠り処として、仏の絶対他力を頼みとしているのです。

 よく世間では「他力」とか「他力本願」と言われて、「他人の褌で相撲を取る」あるいは「漁夫の利」のような理解をされていますが、真宗でいう「他力本願」とは他力が差し向けられるのは、「真実の仏」のみであり、したがって、「絶対他力」とも言われています。


読み下しにあたって
  たとい我、仏を得んに:法蔵菩薩である私が仏に成ることができるならば
  国:人間世界
  人天:生きとし生けるもの
  十方衆生:あらゆる世界の人々
  百千億那由他:数の単位
  定聚:浄土で安定する人
  滅度:浄土のこと
  劫:4㎞四方の石を一年に一度羽衣でなで、石がなくなる時間の単位
  正覚を取らじ:正しい仏に成ることはできない
  難しい熟語:ネットにたくさん解説されていますからご参考にしてください。
 という意味で読んでみてください。


たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿終わりての後、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ。

四 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、形式不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、宿命を識らず、下、百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、天眼を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国を見ざるに至らば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、天耳を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の所説を聞きて、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、他心を見る智を得ずして、下、百千億那由他の諸仏の国の中の衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、神足を得ずして、一念の頃において、下、百千億那由他の諸仏の国を超過すること能わざるに至らば、正覚を取らじ。

たとい我、仏を得んに、国の中の人天、もし想念を起こして、身を貪計せば、正覚を取らじ。

十一 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、定聚に住し必ず滅度に至らずんば、正覚を取らじ。

十二 たとい我、仏を得んに、光明能く限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ。

十三 たとい我、仏を得んに、寿命能く限量ありて、下、百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ。

十四 たとい我、仏を得んに、国の中の声聞、能く計量ありて、下、三千大千世界の声聞・縁覚、百千劫において、ことごとく共に計校して、その数を知るに至らば、正覚を取らじ。

十五 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿命能く限量なけん。その本願、修短自在ならんをば除く。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

十六 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、乃至不善の名ありと聞かば、正覚を取らじ。

十七 たとい我、仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、我が名を称せずんば、正覚を取らじ。

十八 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗せんをば除く。

十九 たとい我、仏を得んに、十方衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発して我が国に生まれんと欲わん。寿終わる時に臨んで、たとい大衆と囲繞してその人の前に現ぜずんば、正覚を取らじ。

二十 たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、もろもろの徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、正覚を取らじ。

二十一 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、ことごとく三十二大人の相を成満せずんば、正覚を取らじ。

二十二 たとい我、仏を得んに、他方の仏土のもろもろの菩薩衆、我が国に来生して、究竟して必ず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆえに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立てしめんをば除かん。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

二十三 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食の頃に遍く無数無量那由他の諸仏の国に至ること能わずんば、正覚を取らじ。

二十四 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずんば、正覚を取らじ。

二十五 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、一切の智を演説すること能わずんば、正覚を取らじ。

二十六 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずんば、正覚を取らじ。

二十七 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、一切万物厳浄光麗にして、形色殊特ならん。窮微極妙にして、能く称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。能く明了にその名数を弁うることあらば、正覚を取らじ。

二十八 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、乃至少功徳の者、その道場樹の無量の光色あって、高さ四百万里なるを知見すること能わずんば、正覚を取らじ。

二十九 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、もし経法を受読し、諷誦持説して、弁才智慧を得ずんば、正覚を取らじ。

三十 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、智慧弁才、もし限量すべくんば、正覚を取らじ。

三十一 たとい我、仏を得んに、国土清浄にして、みなことごとく十方一切の無量無数不可思議の諸仏世界を照見せんこと、猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

三十二 たとい我、仏を得んに、地より已上、虚空に至るまで、宮殿・楼観・池流・華樹、国の中のあらゆる一切万物、みな、無量の雑宝百千種の香をもって、しかも共に合成せん。厳飾奇妙にして、もろもろの人天に超えん。その香、普く十方世界に薫ぜん。菩薩、聞かん者、みな仏行を修せん。もしかくのごとくならずんば、正覚を取らじ。

三十三 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が光明を蒙りてその身に触れん者、身心柔軟にして、人天に超過せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

三十四 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、我が名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずんば、正覚を取らじ。

三十五 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りての後、また女像とならば、正覚を取らじ。

三十六 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、寿終わりての後、常に梵行を修して、仏道を成るに至らん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

三十七 たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界の諸天人民、我が名字を聞きて、五体を地に投げて、稽首作礼し、歓喜信楽して、菩薩の行を修せん。諸天世人、敬いを致さずということなけん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

三十八 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、衣服を得んと欲わば、念に随いてすなわち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。

三十九 たとい我、仏を得んに、国の中の人天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずんば、正覚を取らじ。

四十 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、意に随いて十方無量の厳浄の仏土を見んと欲わん。時に応じて順のごとく、宝樹の中にして、みなことごとく照見せんこと、猶し明鏡にその面像を覩るがごとくならん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

四十一 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、仏を得んに至るまで、諸根闕陋して具足せずんば、正覚を取らじ。

四十二 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を逮得せん。この三昧に住して、一意を発さん頃に、無量不可思議の諸仏世尊を供養したてまつりて、しかも定意を失せじ。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

四十三 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、寿終わりての後、尊貴の家に生まれん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

四十四 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、歓喜踊躍して、菩薩の行を修し、徳本を具足せん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

四十五 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、みなことごとく普等三昧を逮得せん。この三昧に住して、成仏に至るまで、常に無量不可思議の一切の諸仏を見たてまつらん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

四十六 たとい我、仏を得んに、国の中の菩薩、その志願に随いて、聞かんと欲わんところの法、自然に聞くことを得ん。もし爾らずんば、正覚を取らじ。

四十七 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、すなわち不退転に至ることを得ずんば、正覚を取らじ。

四十八 たとい我、仏を得んに、他方国土のもろもろの菩薩衆、我が名字を聞きて、すなわち第一・第二・第三法忍に至ることを得ず、諸仏の法において、すなわち不退転を得ること能わずんば、正覚を取らじ。


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