三つの髻(もとどり)


 生前、仏弟子となって法名を頂く時に、帰敬式(おかみそり)というものをする。
 生前にできなかった人については、葬儀の時に仕方なく(?)帰敬式をして法名が付けられるので、どうも法名というものは死んだ者に与えられる「死に名」(私の造語)、改名(戒名と勘違いされている)みたいに思い違いされ、生前に戴くのを極端に忌み嫌われる方が多いのは事実である。「命日」のことを「死に日」と言った方があったが、そりゃそうだ。額面だけを考えたら。「命日」と言うのは、なぜそう呼ぶかを教えなかった坊主の責任だわなぁ。


 法名についてだけ忌み嫌うことが起こり、お花やお茶や舞踊などの名取となって別名を戴くことについてはコロっと反対に喜ばれるのが不思議なものである。

 おまけに、
 法名(戒名)を貰うのは高い
などと、お布施の評価もされる。
 戒名を付けて貰うのに10万円だった
とか・・・。

 ところが、お茶やお花、舞踊の名取となって名前を貰う仕組みは、相撲の力士の位のように段階が設けられていて、その都度「お礼金」、つまり名取り料が必要なのはご存じないのだろうか。最高位にまで行き着くには、結構高額な包み物を何度も差し出すのですぞ。

 法名を貰っても何の足しにもならない
などとおっしゃる御仁も居られるが、芸事にしたって、要は名前ではなく、本当は実力がものをいうのであるのにな。何のために法名を貰うのかという根本をご理解されていない。法名を貰ったからといって、極楽への指定券を確約された訳ではない。

 いや、実はその反対で、法名を貰うということは、仏法を聞いて、人間としてまっとうな生き方をしていく誓いを宣言したことなのだ。考えてみれば、ノホホンと生きて行くにはエライ厄介な枷(かせ)がはめられたことになる。

 私は真人間を生きていこうとしていますと内外に宣言するのであるから、欲のかたまりの私にとっては、窮屈きわまりない宣言になる。
 どうしても禁煙できないくせに、胸に「禁煙中」という札をぶら下げるようなものだ。

 ところで、法名を頂く時の儀式を「帰敬式」と言い、俗には「おかみそり」と言う。本当は頭をツルツルに剃り上げるのだが、在家(僧侶でない一般の人)の人には、形式的に頭にカミソリを当て、(もとどり)を剃る仕草をする。この時、カミソリは頭に三度当てられることになっている。なぜ三度かというと、これは、「三つの髻(もとどり)を切る」という意味が込められているのである。


一つには、「勝他」である。
 人間というものは、いつも他人より優れていたいと思っている。「わたしゃそんなことは思っていない」と思っていても、胸の内を「グイ!」とえぐってみると、その底には、「隣の人よりも。あいつよりも」という心がひっそりと、しかもガチガチに固まってひそめいているのだ。

 かつて、嫁入りの「三種の神器」というのがあった。洗濯機・テレビ・冷蔵庫だったか。
 「隣では○○を買った。我が家はそれより良い物を買おう」という競争心。それをうまくコマーシャルベースにも乗せて経済発展もしてきた。
 子どもの学校選びもそうだし、自動車も、着る物も、いやありとあらゆる我が身を取りまく物に当てはまる。
 物が悪いのではない。それを見る目が悪いのだ。つまり「根性」。
 ついでにご披露するが、「根性」とは根底にある性(さが)ということだ。


二つには、「利養」である。
 人は何故に「」に執着するのであろうか。金の為なら自らの命も落とし、わずかな金欲しさに他人様の命までも安易に奪っていく。わずか500円の金のために人を殺害した例など日常茶飯事だ。

 人間という生き物ほど始末に負えないものはない。猿の群がやって来ても、好物の木の葉を根こそぎ食い尽くすと言うことは絶対にしない。
 食物連鎖といっても、いかに鰯が好物だとはいっても、マグロが鰯を食い尽くすということはない。
 しかし、人間は、山を丸裸にし、とことん無くなるまで掘り尽くし、根こそぎ持っていってしまう。
 文明という名の下の破壊行為を平気で行うのが人間。
 子孫のことなどどうでも良い。己さえ良ければ、己の時代さえ良ければそれでよい。
 「利養」の根性は、ひいては我が身を滅ぼすことに気がつかない。哀れな生き物こそ「人間」


三つは、「名聞」である。
 人間というものは、人よりも名声が欲しく、地位や位が大好きで、いったんその地位に付くと、何が何でもしがみついておきたい。どんなに非難されようと、バッチは放したくない。地位は上に上にと昇りつめたい。

 他人を蹴落としてでも。人格ができていなくても、中味は泥だらけでも、位を得るならば、如何に金を工面してでも着きたいのが人間の浅ましい姿である。

 「仰げば尊し」という歌の二番の歌詞には、「身を立て名をあげ、やよ励めよ」というのがある。どうもこれは儒教の教えの「孝経」から出たものらしい。
 「孝経」には、「身體髪膚、受之父母、不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顯父母、孝之終也(身体髪膚此を父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり。身を立て道を行い 後世に名を揚げ もって父母を顕すは孝の終わりなり)ということである。
 つまり、生んで頂いた体に疵(イレズミ、穴あけなどなどを自ら付けないことが親孝行の始めであり、立身出世して、人の手本となり、あの親にしてこの子ありと親が社会で誉められるようになるのが親孝行の究極であるという意味である。

 ところがどっこい、ややもすれば名前は有名になるが、親は恥ずかしくて買い物にも行けないなどという例は山とある。「名聞」ということだけにしがみついていると、そんな魔境にはまりこんでしまう。

「勝他」「利養」「名聞」というのは、別々のもののようだが、よくよく考えてみると漢字こそ違えど同じ中味だ。


坊主が頭を剃るのは、三つの髻を切り捨てるという意味なのだが、現実は「三つの髻」が立派に生えている。そういうのを「生臭坊主」というのだ。

 「三つの髻」は、世界の中心はいつも己(おのれ)であると錯覚させる。浅はかなわずかの知識を振り回しては他人と諍いを起こし、己が多少なりとも辛抱しなければならない場面では、怒髪天を貫くように怒り猛り、多少なりとも他人より有利になれば満足して、不利な人の言葉は素知らぬ顔で聞き流す。

 人の世は、「三つの髻」が服を着て歩いているようなものだ。
 三つの髻が言う。
 あけましておめでとうございます。

 元旦や 雑煮で押し出す 去年糞
 元旦や 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし


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