不破数右衛門の子孫について
不破数右衛門には二人の子どもがあり、一人は「大五郎」(事件当時6才)、もう一人は「つる」(事件当時4才)といいました。
「つる」に関しては比較的詳細な記録が伝えられています。事件当時、数右衛門の実父母と古市に同居していましたが、事件後、鍵屋という宗玄寺の弟筋に当たる酒造家のツテで、神戸御影の酒造家仲間の真宗東本願寺末寺である照明寺に預けられ、その寺で長じて同寺に嫁ぎました。また「つる」の娘(数右衛門からすると孫娘)「るい」が宗玄寺に嫁いで来ています。
つる 享保15年11月6日(1726)照明寺にて没 法名 釋妙宣
るい 安永2年10月27日(1773)宗玄寺にて没 法名 釋誓隆
一方、「大五郎」については詳細な記録がなく、篠山岡野村の大膳寺(禅宗)に入って僧になり、その後三河の国の永昌寺へ移ったのですが、そこで足取りが絶えてしまっており、大正期に永昌寺へ照会しましたが、全く記録にないとのことでした。ところが最近(2005.11)になって、篠山市内の古文書研究グループから教えてもらい、その古本の中から不破数右衛門の子孫についての記載を見ることとなりました。
熊田宗次郎著『日本史蹟 赤穂義士』(大正5年初版 東京:郁文社出版部)という本で、その中の35節目に『不破数右衛門の子孫』と題して、以下の記述が残されています。
不破数右衛門の後裔と云ふもの、尾州名古屋藩に仕へ居りしと云ふ。数右衛門の一子大五郎は、その伯母婿たる丹波篠山城主松平紀伊守信庸の家臣太田半兵衛の許に在りしが、大阪に出でゝ僧となり、後ち下総古河の永昌寺に住みしも、終に何れへか失踪せしと云へば、多分還俗して自分なり、其子なりが名古屋藩へ仕へたるものなるべし。
此不破家は鍛冶町に住し、代ゝ数右衛門を名乗りしものらしく、禄高は百石にして、新番とて君侯の大井川など渡らるゝ時、裸男の肩に乗りて、其駕篭を担ぐ役柄なり。
文久年間の当主数右衛門、其二人の子を東橦木町の本多某という手習い師匠の許へ通はせ居りしが、数右衛門兎角に其子の進級遅きを怒り、自から本多方に押し掛けて、談判に及び、果てに口論となりしに、短慮の数右衛門、忽ち憤然として起ち上りイキナリ某を斬り殺したれば、某の長男大に憤り、下男と共に数右衛門の二子を斬つて捨て、更に数右衛門と渡り合うて、難なく之を仕留めたれば、不破家是が為めに断絶に及びたりと云ふ。数右衛門正種の血統を引きたる丈に、中々利かぬ気の人物たりしと見ゆ。
*1 | 伯 母 | 父母の姉のことをいう。不破数右衛門に姉があった事は伝承にない。 |
*2 | 松平紀伊守信庸 | 篠山城主就封1677年 転封1717年(元禄事件の最中に篠山藩に在任の普代) |
*3 | 太田半兵衛 | 実在と姻戚関係は伝承にない。篠山藩の事をもう少し調べれば出てくるかも。 |
*4 | 出家の経緯 | 篠山岡野の大膳寺にて出家したということが正しい。なぜ大善寺なのかは、*3に登場する人物が実在して、そのツテで大膳寺に入ったということは辻褄が合う。大五郎の祖母(数右衛門の母)は大五郎に付き添い大膳寺に住まいをし、大膳寺にて没している。(享保5年1月10日没 戒名 本照院永春信女 俗名・行年不詳) 大五郎がいつ大膳寺から永昌寺へ移ったのかは伝承にないのですが、他の資料からおよその時を判断することができます。 |
*5 | 1861~1864 |
考証
大五郎の出家
吉良邸討ち入りの事件が起こったのは元禄15年(1700)で、当時6才の大五郎は本来遠島の罪科に処されるところですが、出家得度することにより免責される制度がありました。徳川実紀の宝永6年2月(1709)の記述に、『浅野内匠頭長矩が家人等、先に主の讐を報ぜんとて、吉良上野介義央を討たるをもて死をたまひ、その幼子みな親戚にあづけられたるも、このときゆるし下さる。」』と出てくるので、事件9年後に類罪が解かれたこととなっています。この時、大五郎は15才になっているわけです。
諸説では当時大五郎は亀山にいたとあるものもありますが、いよいよ討ち入りを控えて数右衛門が亀山に出向いたとき、父母と二子は既に岡野治太夫の妹「くま」の婚家を頼って古市に住していたため、古市の隣村である不来坂村まで来て、二子と母に面会し、別れを告げた事は事実です。(中には、「くま」が数右衛門の妹などと記しているものもありますが、それは完璧に間違いで、治太夫の妹、つまり数右衛門の叔母なのです。)
横道に逸れますが、数右衛門が自刃の際に遺言が聞き届けられ、討ち入りに着込んだ母からの襦袢は母に、自刃の小刀は大五郎に、また笄はつるにあてて、松平公の家臣により古市の宗玄寺の遺族に寄せられたとあり、自刃当時は大五郎・つる・母は宗玄寺に奇遇していたということになります。ただここで、父(岡野治太夫)宛てには何もないということが少々気になるところで、父子の間に何等かの確執があったのではないかと思えます。
大五郎が何故篠山岡野の大膳寺へ入ったのかということですが、この古本の記述や、他の文献で、太田半兵衛という人物が介在している所に注目してみたいのです。大五郎の伯母婿が太田半兵衛となっているのですが、数右衛門に女兄弟があったということは全く伝承されていません。一方、数右衛門の妻、つまり大五郎の母についてもその伝承がなく、松村喜兵衛の娘云々ともいわれますが、事実はあきらかではなく、眉唾ものに近いと考えられます。
ここで、大五郎の伯母ということですが、本人から見ると伯母は2系統あることになります。つまり父の姉か、もしくは母の姉なのです。数右衛門側の男系を見るときに、女兄弟の伝承が全くなく、母方は殆ど不詳ということですから、この太田半兵衛という人物は、数右衛門の妻の姉(大五郎の母の姉)の婿と云うことではないかと考えられます。
親の罪は子に類罪することから、家族の中で大五郎を養育保護していくことは出来なかったものと考えられます。(討ち入りによって処罰を受けた子どもは全て男子で、女子には罪が課せられていません。)
註:『有徳院御実紀附録巻三』(吉宗の時代の記録の附録 吉宗:1716年~1745年)
刑罰は人の命にかゝる事なればとて、殊に御心を用ひられ、評定所をはじめ、諸奉行所よりまいらするもの、みな夜半すぐるまで御覧ありて盛慮を加へられ、宿老等よりも其議を奉らしめ給ひ、猶思召に応ぜざる時は、幾度も評議をつくされて後令を下されけり。」野伏、乞食の類は、まことに鰥寡孤独にして、告る所なきものなれば、上より定るまゝなりとて、わきて憐ませ給ひ、つまびらかにさたし拾へり。さればこれ より先重罪を犯す者は一族までも連坐しけるが、此御時より刑科を省かせ給ひ、親子の間といへども、親の罪に子は坐し、子の罪に親は坐せざる事となりしとなり。』
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