仏教 あぁ勘違い

仏教って何んですか?

仏教って宗教ですか?
宗教です。
どんな宗教なのですか? 
と尋ねられると、余程しっかり仏教というものの基礎を認識していないと、実はとんでもない間違いを起こしてしまうのです。

 私たちが日常的に仏教というものを思い浮かべてみると
  ・葬式の時に必要なもの
  ・法事をするために必要なもの
  ・願いを叶えてもらうのに必要なもの
  ・観光地のお寺

という以外に、ほかにすぐに思いつくことはありますか。これらは極端に言ってしまえば仏教的存在なのです。

 私たち日本人は、仏教伝来の事実が、実は宗教としての信仰ではなく、来日使節のお土産物として入って来たということの外に、これを国家鎮護の道具として扱って来たのです。


一つ一つちょっと覗いてみますと、
 お葬式や法事の時に唱えられるお経は、死者に聞かせる内容のものは一つもありません。大胆に内容をかい摘まんでみると、それは、
 人間を生きていくのは大変なことなんだよ。俺が…俺が…と生きているから苦悩にぶち当たるんだよ。一度周りの中での自分の存在というものを認識してはいかがですか?
ということが、手を変え品を変え説き開かれているのです。

 だいたい、「お経をとなえる」などという言葉が勘違いを起こす原因の一つなのです。「となえる」などと言えば、何やら摩訶不思議な呪文のように聞こえて来ますね。

 手品の呪文で有名なのに「アブラカタブラ」という言葉があります。このアブラカタブラとはどういう意味かというと、全く解説不可能な、無意味な言葉なのです。何語が基本だったかは忘れたのですが、右から読んでも左から読んでもアブラカタブラと書かれていました。
 この呪文を唱えて、空の箱からハトが出てくると、いかにも不思議な魔力をもっている言葉のように思いこんでしまいますね。


 マカ不思議なのは仏教でして、仏教のお経は、今もって漢文です。それを棒読みにしているのです。曹洞宗や天台宗などでは、これらのお経の一部は現代語訳されて、それをみんなで声を出して読んでおられるのに接することがあります。しかし、真宗大谷派は、まことに何と言って良いのか、法話はすれども、肝心のお経は未だに漢文の棒読みです。これでは意味は全く通じません。だって、漢文というのは中国語なのですから。

 何人もの三蔵法師が、インドへはるばると旅をして、パーリー語やサンスクリット語で書かれた経典を持ち帰り、中国で中国語に翻訳された物が、今の私たちがよく目にする経典です。私たち日本人は、その中国語の経典を日本語に翻訳することをしなかったのです。返り点を付ければ、なんとか漢文が読めたからです。でも、その返り点を打つ場所を間違えると、意味はとんでもないことになります。

願いを叶える

 お寺に参ったり、お百度を踏んだり、加持祈祷をすれば願いが叶うとお思いの方がたくさんいらっしゃるようです。確かに、願い事を掛ける無数の人々の中には、それこそ偶然に、思い通りに事が運ぶようになる方もいらっしゃいます。数千人の中の一人かも知れませんし、数百人の中の一人かも知れません。

 仏教が加持祈祷や占いと同じ物であるという誤解は、実はお経が日本語化されなかったということではないでしょうか。中味が良く判らないから、まるで呪文に聞こえてくるのでしょうね。
 有難いお経をありがとうございました。
などと礼を言われると、
 このおっさん 何考えとるねん。
と。
お経の意味が判っていて言ってるのか?。

 何やら全く判らんからありがたい。
と言った方もありましたが、
 冗談も良い加減にしたら…?
と思うのです。

先祖を拝む

 先祖の供養のためにお経をとなえるという思いがあるでしょうね。でも残念ながら、先にも書きましたように、先祖に言って聞かせる内容のお経は一つもないのです。あなたや私のような先祖不孝な人間が、先祖に向かって何を言えば良いのでしょうか。チャンチャラおかしい自分の滑稽な姿に気が付かないのですね。

 先祖というものは、自分とは無関係な世界へ行ってしまった過去の人なのでしょうか。いえいえそうではありません。「先祖の血が流れている」という言葉がありますが、亡くなっていった父や母の命(DNA)は私の中に脈々と息づいています。私の身体は、二人の親の命そのものなのです。

 先祖は亡くなって別世界に行ってしまったのではなく、今まさに私自身として生きているのです。先祖を拝むということは、実は私自身を拝むことになるのですねぇ。

儀式として拝む方向

 儀式の時に、みんな前を向いて、掛け軸や木像に向かってお経を読み、手を合わせています。でも私はちょっと変だなあと思うのです。本来はその場のリーダーが、象徴としての掛け軸や仏像を背にして、みんなと対面してお経を読んだり意味を確かめたりするのが本来の姿だと思うのです。

 仏像なるヘンテコリンなものがこの世に出現したのは、お釈迦さまが亡くなられて後、500年も経ってから、ガンダーラという所で発生したと言われています。ガンダーラはキリスト教の十字軍が遠征したところで、ギリシャ人が残留していたということです。この地方で仏教という宗教が存続していくために、「この世とあの世」という考えを取り入れ、仏像という崇拝物を作らねばならなかったのです。

 お釈迦様は亡くなられる時に、「今までは私を手本として来たであろうが、これからは、自らを手本とし、法を手本として生きていけ」と言われたと伝わっています。つまり、漢文では「自灯明 法灯明」と言われていることです。仏教はいわば人生の定理なのです。その定理を証明したのはお釈迦さまなのです。

 ピタゴラスの定理というのがありますね。直角三角形の各辺についての定理です。Aの2乗=Bの2乗+Cの2乗 というものです。でも、ピタゴラスの偶像を拝んだりはしませんね。真宗では本尊と言われる掛け軸や仏像は、「方便法身の尊像」と呼んでいます。それは、その掛け軸や仏像自身に摩訶不思議な力が備わっているのではなくて、私たちに見える姿として仮に象徴した物と位置づけているのです。

手段が主壇になった

 仏教が葬式や法事をするのは、一つの手段の一つにしか過ぎないのです。いえいえ、宗教というものはすべてそうなのです。

 例えば、キリスト教の主たる中味はお葬式ですか? キリスト教に触れるのは法事の時が主な機会ですか? そんな事を一度クリスチャンの方に聞いて見てください。必ずNOと答えられると思いますよ。「毎週、ミサに参加し、聖書を読み、牧師さんのお話を聞き、それらを自分の生活の中に生かしていくのがクリスチャンです」というような事をおっしゃられると思います。

 キリスト教でもお葬式や法事(「法事」とは言わないでしょうが)をされますが、決してそれが主体ではないのです。仏教も本当はそうなのです。お釈迦さまは「教え」のなかで、一言たりともお葬式や法事の事には触れておられません。お葬式や法事をするのは、肉親の「」を通じて、自分自身の「」を見つめるための一つの手段であったのが、いつの間にか「手段」と「主体」が逆転してしまったのです。


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