坊主の悩み


能書きタラタラ

 私の寺は門徒さん(檀家さん)が20戸ばかりの寺です。そんな寺がどうやって成り立ってきたかはご想像に任せますが、代々の住職は兼業していまして、「寺子屋」をやったり、郵便局に勤めたり、 そして私は今町役場に勤めながら寺の住職をしています。田舎では、会社勤めの傍ら、お百姓をし、土日は田圃と格闘なんてのは珍しくもなんともないのです。
 そう考えてしまうと、私の悩みは随分身勝手なことになりますな。

 法事や寺の行事は、ほとんど土日に行われます。だって、ウィークデーでは人も集まりにくいし。
 近頃は神様のお祭り(村祭り)も土日に変更されているところがたくさんあります。過疎化と言うのでしょうか、老齢化というのでしょうか。確かに人口は少しづつ増加していますが、都市部からの分譲住宅地への流入でして、地域の伝承的なものを伝え担っていく部分では、かえって減少傾向にあり、私の住んでいる地域では、なんと老齢化率は30%になっているというではあーりませんか。

 都市部の方はどうだか想像しか出来ませんが、田舎というのは大変でして、土日がゆっくりできるというのはなかなかの事です。やれ運動会だ、体育祭だ、○○研究大会だ、秋のイベントだ、文化祭だ、クリーン作戦で空き缶拾いだ、何だかんだと。
 だから土日の行事があっても、職場の同僚に無理を言って外してもらって法事に行かねばならないこともたくさん出てくるのです。

個人的悩み

 法事はまだいいのです。つまり、予定がはっきりしていますから。私の寺では半年も前から、いや、中には一年も前からの法事の予約が入る場合もあります。それは、急に言っても坊主が忙しいからということを門徒さんがいやと言うほど実感したからです。
 ところが問題はお葬式。これは予約がないのです。急に入ってきます。ご門徒さんの場合は、それとなく情報が入ってきて、○○さんとこのおばあちゃん、どうも具合が悪いらしい・・・・。などと。
門徒さん以外の方が問題です。分け隔てをするのはいやです。でも、でも。

 坊んさんは、消防署のように24時間体制で寺に待機しているとでも思い込んでおられるのでしょうか。都市部からお移りになった方からのお参りの要請は、必ずと言っていいほど、
 宗玄寺さんですか? わたし○○の○○と言います。○月○日○時にお参りしてください。
なんです。
 私(住職)の予定もなにも全く無視というのか、私のために住職が居るという態度。都市部のお寺さんは、商売繁昌と割り切って、はいはいと応えて来られたのかなとも勘ぐりたいのですが・・・・。
 先代の住職が言っていたということに、
 都会へ出ていった人はなぁ、自分が住職を飼うとるように言うで。 と。
それは私も若いときに経験しました。
 あしたお墓参りに行きますから、お経をお願いします。との電話。
 しまった! 時間を聞いとけばよかった。
 ピンポーンと、な、なんと、朝の6時。
 この時間やったら道が空いとるから・・・・
次の年は、待てど暮らせど来ぬ人を・・・・。待ちぼうけ、待ちぼうけ・・・・。
何時到着か時間を言え。 とうとう若気の癇癪が爆発。

坊主が来ない

 寺の研修会がよく行われる。そのおかげで私は住職になったようなもの。土曜日の午後によく研修会がもたれる。門徒さんと一緒に研修会がある。私は比較的出席率はよい。だが、
 住職の出席率が悪い。住職は不勉強や。儂等ばっかりに勉強や言うて。
と言う不平が出る。
 出席してる門徒さんは、定年退職であったり、比較的ゆったりと時間を過ごしている方が多い。以前もお葬式があって、法中の全員が大きな葬式に出て行って、研修会には欠席であった。まあ、蜂の巣をつついたような・・・・。
 最近、土日が休みの所が多くなって、土曜日の午後の法事もたくさん出てきた。そこへ、兼業住職となると、身は一つ。
どーせー言うのか。
24時間待機の生活はどうしたら出来るのか?
良寛さんのように、清貧にしていけるような状況の世の中ではない。

私しか見えない

 旧来からの門徒さんと住職の関係は、そうは言っても、うまくいっている。お互いがお互いの中身(生活の様子)をよく知っているから。
ところがじゃー。
言葉悪いが、一見さんとの間がうまくいかん。
先にも書いたように、24時間体制と思っておられる。
まるで、寿司の出前注文みたいだ。
 時間にやってきて、葬式するのは当然とばかり。ときどき低調にお断りすることもある。信仰の自由もあるが、信仰される自由もあると思うが、いかが・・・・。
 葬式を出す家の方は、大変なことであると言うことはよーく知っています。だから、その悲しみと、大変さには坊主としてはちゃんと応えてあげたいのは山々なのです。

 一つお葬式を抱えると、逮夜は別としても、坊主もその時間だけ空ければいいという具合にはいかない。往復の時間、還骨勤行、などなど、付随したものがある。それが商売と言えばそれまで。
私の言いたいのは、普段は寺にそっぽを向いていて、仏事は年寄りの仕事、寺には近寄りたくない。
 あっしには関わりねぇことでごさんす。
てな関係であるのに、いざ葬式となると、お寺さん、お寺さん。
お布施や賽銭なんて姑息なことを言っているのではない。

生前のお付き合い

 生前(生きている間)の出逢いがあってこそ、坊主も人間としての悲しみを共有しながらのお葬式ができると思うのです。
 世は、仏教を「葬式仏教」と言っています。でも、それは坊主だけがそうしたのではなく、みんなが寄ってたかってそうしてきたのです。
原点に戻りたい。そうは思いませんか?
お互いに一つしかない人生を送っています。
 私の寺には、檀家さんでないかたも沢山お越しになります。夜通しパソコンをさわったり、仏法を話したり、焼き肉パーティーをしたり。寺という環境を別に特異なものとは見ておらぬ様子ですし、坊主もただの人間として付き合ってもらっています。
 特別高貴な者だとか、ケガレた者とか、そんな感情はないようです。特に取り上げれば、境内の草引きは大変だろうな、とか、掃除が大変とか、行事の時はごった返してプライバシーもなにも開けっぴろげだな、とか。ただそれだけ。


旧ホームページからの移転

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました