人間にとって何が幸せなのでしょうかねぇ。
例えば、お金があれば幸せなのでしょうか。
それぞれに抱えた課題や問題があるのは十分理解出来るのですが、そのお金を稼ぐため、家族との団欒の時間さえも捨て去り、金を稼ぐことに全力を傾ける。無理なローンを組んで、最後には全部失ってしまう。
10年も15年もの間、単身赴任で家族と離れて暮らさざるを得ない。では、それは本当に家族なのだろうか、夫婦なのだろうか。
車椅子に乗った障害のある人に対して、
「不幸せですねぇ」と言うと、「いいえ、少し不自由なだけで、不幸せとは思っていません」と返ってくる。
アフガニスタンの難民の方は、今何が欲しいのかという答えに、「毛布が一枚と食べる物」と返ってくる。
人それぞれ、その置かれた環境によって、どうすることが幸せであり、どういうことが不幸せとなるのか、一定ではないようである。
幸せとは、ひょっとしたら、その人自身の受け取り方によるのではないか。
「おしん」と言えば「大根飯」
大根の葉を持って帰って、それを料理に使う人は少ないらしい。ところが、この大根の葉はビタミンが豊富で食材として十分に利用できるのである。
葉っぱを細かく刻んで、少々のチリメンジャコを混ぜ合わせ、少々の油を加えてフライパンで炒める。これをそのまま食べても良いし、ご飯に混ぜて食べても良い。ご飯に混ぜると、なかなか美味な「大根飯」になるのだ。
ところが、この大根飯がとてもおいしく、「あー、美味しかった~」と言える日と、「何や、また大根飯か」と言ってしまう日があるということだ。
大根飯には変わりがないし、食べる人間も変わりがないのに、「美味しい」という日と「何や、またか」という日があるのはどういうことなのだろうか。
心が充実していると、大根飯は美味しいし、心が傷つき、心が荒れていると、大根飯は不味く感じてしまう。
心が豊かになるのは、決して金があるからではない。贅沢な生活があるからではない。いや、金を集めるために、贅沢をするために、失っていくものがどれほど多いことか。金や贅沢は、心という人間としてのいのちと引き替えにして行くだけの価値があるのだろうか。それは、実は私をダメにしていく魔物以外の何ものでもないのではないだろうか。
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