善知識と廻心


善知識

 仏教の多くの書物の中に、「善知識に遇う」という言葉があります。
 私達は常日頃、
 「あの人はいい人だ」 「あの人は・・・・・」
と言っていますが、それは、「
「あの人は私にとってはいい人だ」
という、自分のはからいがくっついています。 それが証拠に、いい人だと思って下さるのか、時たまご相談に来られることがある。話の中身を良く聞いて、「それはあなたの自分勝手で、相手には通らないことですよ」、などと否定すると、次の日には、私はたちまち「人の心の判らないクソ坊主」と言い振らされてしまうことがあります。

 私は、何も「善知識」であるなどとは一度も思ったことはありませんがね。

 善知識というのは、その場その場に都合の良い解決策らしきものを教えてくれるのではなく、ほんものを教えてくれる方を善知識というのです。それは、「私にとっては大変都合の悪いこと」であるかも知れません。


 仏教が何を私達に伝えようとしているか、そのことを自分で見つけ出そうなんてことは、失礼ながら不可能に近いと思います。
 なぜなら、経文や用語や、思考の組立方について、我流で解釈しても、どうしても納得がいかないからです。それは、解釈をしていく中に、いつも「自分の現実の生活と対照して、自分にとって都合のよいように解釈したいという思い」が働くからです。
 それを「自分のはからい」と言います。それを「我執」とも言います。それを「自我」とも言います。
 よく、「」とか「自我」を、「自分という人間の存在の事実」と同意語に解釈される方があります。字面から見れば、そのように解釈したいですよね。しかし、宗教というのは、「存在の事実の中身」について問うていくのです。
 仏教は決して言葉遊びではありません。問答をして、解決策を見い出していくと言うような合議でもありません。だって、問答も、その結果出てくる合議も、みんな「自己のはからい」が介在しているからです。
 そんな方向の宗教(?)を「外道」と言っています。


 親鸞聖人は、三段論法で仏の教えを説明していることが「歎異抄 第2条」の所に出てきます。
 釈迦の教えは虚ではない。なぜなら、釈迦の教えが真実であるから、善導大師が嘘言を解説されたのではない。善導大師の解説が真実なら、法然上人の言葉は虚言ではい。法然上人の教えが真実であるなら、親鸞が言うは絵空事ではない と。


 さてさて、では「自己のはからいを捨てよ」となると、単刀直入に、
 「あきらめよということか?」とか、
 「流れのままに流されて行けということか?」とか、
 「それでは自分というものの存在も否定されることになる」とか、
 「この世の中で、人間が一番具合の悪い存在になってしまう」とか。
ついつい、完全否定の方向へ解釈していくことが生じます。

 でもそれは違うのです。肯定(うなずき)なのです。自覚なのです。
 ここでまた、「自覚」と言う言葉を使うと、「自らをさとる」と解釈したくなりますがね。
 自分で自分のことがさとれりゃ苦労はないわな。
 仏教は、諸行無常であるからこそ南无阿弥陀仏と頼み、阿弥陀仏の大いなる力に包まれることにまかせるのだということを、八万四千ものお経で説いてあるのです。


 曇鸞大師という方が、「釈迦が説いた84000ものお経の意味を、しっかりと自分のものにするには、とても私の寿命の長さでは到達する事が出来ない。私は84000のお経の意味を自分のものにするために、まず仙人の秘法を身につけて、自分の寿命が長く続くようにすることが先決だ」、と言って、不老長寿の秘法を勉強し始めました。

 ところが、ガツンとやった善知識(お師匠様)がいました。
 「バッカモン!!。そんなことが出来るわけはない。だから、『阿弥陀仏の力を、ただ疑いもなく信ぜよ』とあるのだ!! ああだ、こうだと、自分の都合で判断するような勉強をしても、クソのやくにもたたんわい!!
と、曇鸞大師を叱りつけたのです。


回心

 回心とはただ一度だけあるものと言われています。
 そして、それは元には戻らないものとも言われています。
 確かに確かに正しい方向が見えた時のことを回心と言うのです。
 私は、長い間坊主をしてきましたが、ある研修会で、「人間というものはな、自分にとって都合の良いことは大好きと言って暮らし、自分にとって都合の悪いことは大嫌いと言って暮らしているものなんだよ」って言われたとき、ものすごいショックでした。
 そして、「そうだ、そうだ。そのとおりだ」とうなずけたのです。
 何事につけても、その言葉と照らし合わせてみると、そのとおりであることに間違いないのです。
 そのことに気づかせていただけたことが、私にとっての回心だったのでしょう。


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