昭和24年発行の「迷信の実態・日本の俗信」(文部省迷信調査協議会)によると、孔明六曜星などというと、さも諸葛孔明の発明であるかの如く思われるが・・・・元来これは、中国の「小六壬」という迷信を日本で作り替えた上、箔をつけるため、名将孔明の名を冠するという小細工をしたものと思われる。・・・・・・しかし、乾隆36年にできた「通徳類情」という有名な迷信書にも「毫も深義もなし、むろんその義は取るに足らず、いずくんぞ拠となすべけんや、人を欺くものなり」と罵倒して、暦書から抹殺したものである。寛政・文化・嘉永と流行した「暦略注」等にも、孔明六曜星が全く省略されており、当時さほど重要視されていなかったらしい。
「暦略注」の最後の部分に「闇の曙」(新井白我)の一文を抜粋しているものに、「曰く、世間に愚俗を惑わす道具のあらまし次の如し。家相・人相・墨色・字画の占い・金神及び仏神のたたり・剣相・日取り・星繰り・憑きもの・呪禁・不成就日・辻占・死霊・生霊。・・・・・家屋敷を買う人には吉日なれど売る人の身には凶日なり。物拾い、或は金もうけせし人には吉日。物落し、金銭にても損せし人には悪日なり。この類推して知るべし。」とある。
日本における六曜はせいぜい120年程前からのもので、中国の「小六壬」から随分変化したものである。また、「神宮館家庭暦」は、皇太神宮とは無関係なものであり、神宮館と称する業者の発行する印刷物に過ぎず、これを後生大事に盲信している人々のあり方こそ、日本社会における精神文化の停滞を意味するものである。
妖怪学の井上円了は「吉日凶日を談ずるがごときは、・・・・・・特にかくの如き説を信ずる者あるがため、之を専門とする徒は人民の愚に乗じ、種々の怪談・妄説を附会して、以て自ら私利を営まんとするの弊あり。この故にいやしくも今日の教育を受けたる者は、かくの如き妄説を排し且つその惑いを解かんことに従事せざるべからず」と強調している。
明治5年11月9日、太政官布告337号において「今般改暦之儀別紙詔書写の通り仰せ出され候條、此の旨相達し候事」と太陰暦を太陽暦に改めるにあたって、次のような「改暦詔書写」を掲げている。
「朕惟うに我国通行の暦たる、太陰の朔望を以て月を立て太陽の躔度に合す。故に2,3年間必ず閏月をおかざるを得ず、置閏の前後、時に季節の早晩あり、終に推歩の差を生ずるに至る。殊に中下段に掲る所の如きはおおむね亡誕無稽に属し、人智の開発を妨ぐるもの少しとせず・・・・・」と論告し、同年11月24日、太政官布告を続いて発し「今般太陽暦御頒布に付、来明治6年限り略暦は歳徳・金神・日の善悪を始め、中下段掲載候不稽の説等増補致候儀一切相成らず候」と厳しく達している。
(以上出典は亡失)
「六曜」を始めとする「三隣亡」や「血液型」などの迷信が、実生活の中で慣習として生き残っていることと、「慣習としての差別」の存在は共通するものがある。そしてこの「慣習」というものは、知的な形として形成されていくものではなく、「刷り込み」と云う形で形成されていくものである。
時代による六曜の変遷
時 代 | 1 | 2 | 3 | 4 | 4 | 6 |
中国 陽年 | 小吉 | 空亡 | 大安 | 留連 | 速喜 | 赤口 |
中国 陰年 | 留連 | 速喜 | 赤口 | 小吉 | 空亡 | 大安 |
室町時代 | 大安 | 留連 | 速喜 | 赤口 | 小吉 | 空亡 |
江戸時代 | 泰安 | 流連 | 則吉 | 赤口 | 周吉 | 虚亡 |
現 在 | 先勝 | 友引 | 先負 | 仏滅 | 大安 | 赤口 |
明治時代には、友引⇒共引 仏滅⇒物滅 と呼ばれていたという。
六曜の計算方法の基礎は「旧暦」の月日の数字を元にして計算する。
旧暦の (月の数字+日の数字)÷6 で、余りの数を基にする。
余り=0 大安
余り=1 赤口
余り=2 先勝
余り=3 友引
余り=4 先負
余り=5 仏滅
「旧暦の5月1日を大安とする」は、つまり、余り=0ということである。
一日一日占ったものではない。
あんまり気にするほどのことではない。
昔は時間的な(午前中・午後とか)の占いだったそうだ。
まあ、旧式の日月火水木金土みたいなものだ。
日が悪いのではなく、原因はもっと違ったところにあることに気づくことが大切だ。
明治の初めにはたくさんの布告が出され、封建制から脱出しようとした。
1871年(明治5年) 神道を国家宗教とする。(太政官宣言)
1872年(明治6年5月30日) 女人禁制の廃止。(太政官布告)
1872年(明治6年5月30日) 僧侶の肉食・妻帯・平服着用許可。(太政官布告)
1872年(明治6年11月2日) 人身売・娼妓の年季奉公の禁止。(太政官布告)
1873年(明治7年1月15日) 梓巫・市子・憑祈祷・狐下げの禁止。(教部省令)
六曜と七曜は違うもの
六曜と七曜を混同している方があることに気がついた。つまり、日常に使っている「日月火水木金土」というのは、いわば暦上のことで、確実に7日毎に廻ってくる。明治5年「太政官布告第337号」で太陰暦を太陽暦に改める事が決まり、明治6年の初めから太陽暦(現在の暦)を使うようになった。
七曜は平安時代には日本に伝わっていたようであるが、明治9年「太政官達第27号」により、公務に日曜日を休日する事が決められ、以後、七日毎に繰り返していく西洋式の七曜が用いられるようになった。
日本に伝わった頃の七曜は、まだ占いの範疇であったが、明治以降は暦として日常生活の節目をはっきりさせるために「暦」としての用い方になってきた。
平安時代の藤原道長という人の日記に日曜というのが書かれているようで、それを順に繰っていくと、現在の曜日につながるそうだから、よく研究された方がある。
「来る4月より日曜日を休日にする」というお触れであるが、「4月1日を○曜日にする」というのが見つからないので、まあ、庶民は知っていたのだと考えざるを得ないが・・・。
太政官達第27号 の約20日後の4月1日から日曜日が休日になり、土曜日が半ドン(午前中勤務)となったのも、このあたりからである。それまでは、休日等というものは特に決まっていなくて、商家の丁稚などは正月とお盆の藪入りぐらいに休暇をもらえて、いわば年がら年中働いたということである。今日、法事は土日によく行われるが、当時は命日に行ったのだろう。特に休日という規定がないのだから。
しかし、太政官達をよく見ると、それまでは一六日が休暇であったようだ。16日が休暇ではなく、1と6の付く日がおやすみだったようである。私の近くで、一六参りといって、1と6の付く日に神社参拝の行事があったということであるから・・・。
それまで(明治までの時代)の古文書では、七曜の記載はなく、十干十二支が用いられていた。つまり、「丙午」などという十干と十二支を組み合わせて用いており、還暦とは、生年と同じ組み合わせになる年をいう。
十干十二支という用い方をしていても、その組み合わせに吉・凶の考え方はなく、頻繁に改元(元号が変わること。昭和→平成のように)がされていた明治までは、改元されることにより、通算計算が非常にややこしくなるので、十干十二支を併用することで通算計算が非常に便利なものとされていた。現在では元号で年を表すと同時に()で西暦が表されるようになったので、通算の計算は容易になった。
七曜が日常に用いられるようになってからは、130数年しか歴史がないということである。
ところが、六曜も同じようなものという認識をされている方が居てびっくりしたのである。六曜は六壬占いといって、もう全くの迷信なのである。しかも、そんなものを気にしているのは、世界広といえども、日本人だけなのだから、びっくり仰天。
明治6年「教部省第2号」で、「迷信・占い・狐憑きなど、近代化を妨げるものであるから以後これを禁じる。厳重に取り締まること。」という指令が出されている。
明治のお役人の方が、もっと科学的で合理的な判断をしていたと言える。
日本人は余程迷信好き・占い好きなのか、それとも自分に自身がないのか。信じる信じないは本人の勝手だが、鰯の頭も信心からとは言うものの、信じるに値しない物を信じるというのは如何なものか。
明治5年(1872年)
○第三百三十七号 太政官(十一月九日 布) (改暦ノ詔書)
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季候ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率ネ妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス蓋シ太陽暦ハ太陽ノ躔度ニ従テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アリト雖モ季候早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スレハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
明治五年壬申十一月九日
一 今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事但新暦鏤板出来次第頒布候事
一 一箇年三百六十五日、十二箇月ニ分チ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
一 時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処今後改テ時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事
一 時鐘ノ儀来ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事但是迄時辰儀時刻ヲ何字ト唱来候処以後何時ト可称事
一 諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事
太陽暦 一年三百六十五日 閏年三百六十六日 四年毎ニ置之
一月 大 三十一日 其一日 即旧暦壬申十二月三日
二月 小 二十八日閏年二十九日 其一日 同癸酉正月四日
三月 大 三十一日 其一日 同二月三日
四月 小 三十日 其一日 同三月五日
五月 大 三十一日 其一日 同四月五日
六月 小 三十日 其一日 同五月七日
七月 大 三十一日 其一日 同六月七日
八月 大 三十一日 其一日 同閏六月九日
九月 小 三十日 其一日 同七月十日
十月 大 三十一日 其一日 同八月十日
十一月 小 三十日 其一日 同九月十二日
十二月 大 三十一日 其一日 同十月十二日
大小毎年替ルコトナシ
午前零時即午後十二時子刻 一時子半刻 二時丑刻 三時丑半刻 四時寅刻 五時寅半刻 六時卯刻 七時卯半刻 八時辰刻 九時辰半刻 十時巳刻 十一時巳半刻 十二時午刻 午後一時午半刻 二時未刻 三時未半刻 四時申刻 五時申半刻 六時酉刻 七時酉半刻 八時戌刻 九時戌半刻 十時亥刻 十一時亥半刻 十二時子刻 右之通被定候事
明治6年(1873年)
○第二号 教部省(一月十五日) (卜占祈祷禁止)
従来梓巫市子並憑祈祷狐下ケ抔ト相唱玉占口寄等之所業ヲ以テ人民を眩惑セシメ候儀自今一切禁止候條於各地方官此旨心得管内取締方厳重可相立候事
明治9年(1876年)
○第二十七号 太政官達(三月十二日 輪郭附) 院省使庁府県(宛先のこと)
従前一六日休暇ノ處来ル四月ヨリ日曜日ヲ以テ休暇ト被定候條此旨相達候事
但土曜日ハ正午十二時ヨリ休暇タルヘキ事
現在、週休二日制が広まって来たが、最初は役所から実施していった経過を思い出して頂くと理解できる。日曜日を休みの日とし、土曜日の午後からも休みとするのは、明治時代でも各省庁から実施していったということである。
六曜からエラク脇道に逸れてしまった・・・。
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