ゆく河の流れは常にして、しかも、もとの水にあらず・・・・
これは、有名な「方丈記」の冒頭の言葉
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・・・
これも、有名な「平家物語」冒頭の言葉
いずれも仏教の三法印が最初に紹介されているのです。
諸行無常
どんなものも、一時も同じ所にとどまっていることはなく、常に時間が流れていくように、同じ状態をとどめることはないということです。
私は、いついつまでもこのままで生き続けていたいと願っていても、歳をとり、皺を寄せ、腰は曲がり、やがて命は尽きていくのに、私の思いは、そのままでありたいと、その変わりゆくという真実に逆らってばかりです。
いくら逆らってみても、それは実現することなく、非情にも私自身の身の上に事実として降りかかってきます。
作られたものはいつかは滅び、生まれたものは必ず死ぬという事実なのです。
諸法無我
全てのものには実体があって、その実体が他に影響を与えているというのが人間的な考え方ですが、実は全てのものに実体があるのではないのです。
実体があると思いたくなるのが「我」という観念なのです。
私達は、その「我」から離れないために、いろいろな「苦」を共にしていかねばならない羽目になっています。
「我執」とは「我にとらわれる」ということですし、「無我」とは「我から離れる」ということです。 私達は、このままであり、「常」でありたいと思い、「我」が自分の中心をなしていると思いたいものです。
しかし、よく考えてみると、実に簡単なことですが、人間もこの大宇宙という自然の中に生かされている、いわば自然そのものであると言うことです。
人間は、万物の霊長とか言って、限りなく自然をコントロールし、限りなく科学的技術で何んでも可能と思いこんでいるのですが、良く考えてみると、無から有を生じさせることは不可能ですし、たった一粒の命さえ、試験管の中から生み出す事は不可能です。
まして、いかに科学の力を駆使しようとも「永久機関」を発明することは不可能なのです。これは、エネルギー不変の法則といって、中学校の理科でも習っていることでした。
「無常」であることを認めたくないから「我」の存在を認めようとするのですが、「無常」であることを認めれば、全てのものが「無我」であることを認めざるを得なくなりはしませんか?。
涅槃寂静
「無常」であることを素直に認め、「無我」であることを認めていくことが「涅槃」という事なのです。「涅槃」とはサンスクリット語でいうニルバーナの中国語音訳です。
認め切っていくこと=涅槃
そのとき、私達は、「我」から解放され、自然の中の、時の流れの中の共生の一人として自然の中に受け入れられていく存在になるのです。その存在を「寂静」(寂静の世界)と表現されています。
なんやら、判ったようで判らん解説になりましたか??
もっと簡単に、大胆に表現するならば、人間は生物の頂点ではなく、全ての命と共生している同じ命の仲間の一員であると言うことです。全ての命とは、自然そのもの全てなのです。
そう考えると、この地球環境のこと、自然破壊のこと、全ての問題に自然と素直な澄み切った眼(まなこ)で見つめていくことができるのではないでしょうか。
仏教は「仏」(ほとけさま)という絶対的なもの(人?存在?)を前提に存在するのではなく、この大自然の中に育まれて共生していく私自身の命の存在をみつめていくものだったのです。
そのことを諸行無常・諸法無我・涅槃寂静という三つで一つになる言葉で表現しています。
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