「きれいなもの」と「きたないもの」。私たちは普段の生活の中で区別しています。「きたないもの」は、下水 ウンコ 血 死体 …。
「きれいなもの」では 泉の水 赤ちゃん …。
それぞれいろんなものを連想されるでしょう。一般的には自分の身体の中にあるうちは「きれいなもの」、一度身体から排泄されたものは「きたないもの」という概念もあるようです。
ところが、私たちと生活習慣が違う人たちの中では、「牛のウンコ」は大切な燃料として炊事には欠かせないものですし、家の壁もウンコで塗られます。エスキモーの人たちの重宝する飲み物は動物を解体したときの「生血」です。
「茶碗はちゃんと手に持って!」と躾けられていますが、お隣の韓国では、茶碗は手に持たないのがマナーだそうです。箸やスプーンを使わず、手づかみでカレーを食べるのがマナーの民族のあることもテレビでよく紹介されています。
私たちは今まで「きれいなもの」を「浄」、「きたないもの」を「不浄」としてきました。しかし、先の例のように、必ずしもそうとは言い切れない部分があります。どんなに清潔であっても、トイレを「ご不浄」とも言います。「浄」なるものと「不浄」なるものを区別するのは、生活習慣というものだけではなさそうですね。
「不浄」なるものは「ケガレ」たものとされています。そして「ケガレ」は伝染もします。それは「蝕穢」という考えかたです。Aの死に触れるとBは「ケガレ」ます。そのBに触れたCもまた「ケガレ」ます。Cに触れたDもまた「ケガレ」がうつるのですが、Dから先へはうつることはありません。これは遠く「延喜式」(昔の法律)に定められていました。
しかし、この「浄」・「不浄」と言う考え方は実に便利なもので、「不浄」なるものは「祓い清める」ことによって「浄」に変えていくことができます。つまり、人間の都合によってどうにでもなるということです。
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