私は無宗教ですと言われる方が時々ある。
なぜ無宗教なのですかと訪ねてみる。
そこで答えていただく内容を、ある程度分類してみると、次のような傾向がある。
・宗教はこわい。
・宗教は陰気くさい。
・宗教は年寄りのすることだ。
・宗教は金がいる。
・寄付を強要される。
・私には何のことか、中身がさっぱり解らない。
・宗教は麻薬みたいなものだ。現実は少しも良くならない。
・友達の様子をみていると、私にはついていけない。
と、まあこんな風に答えられる。「だから私は無宗教で行くんだ」と言われる。
しかし、私から言わせると、「あなたは無宗教という名のもとに、自分教を信じているにすぎない」と思うのです。
日頃、無宗教だといっておられる方が、家族の中にご不幸があると、
枕経はどうするのか、葬式は、法名(戒名)は、僧侶の数は、お布施が安いの高いの・・・。
と言うケースもある。
もっとおもしろい(失礼!!)のには、仏式の葬儀をすることには異存がなく、いや、仏式で葬儀をしたいのだが、法名(戒名)はいらない。つけないでほしいという方が出現したことだ。
開いた口がふさがらないというのは、まさに私の方だ。法名がいらないと言うことは、宗教的儀式のない葬式ということになる。仏式でされる必要はさらさらない。そもそも、葬式というのは、坊主がお経をあげることだと思っている。宗教儀式としてお経を上げることで、死者を慰霊し鎮魂していく作用が働くとでも思っておられるようだ。
他の宗派のお葬式の時のお経は詳しく知らないが、真宗でのお葬式の時にあげるお経(偈文)には、そんな鎮魂慰霊の内容は全くない。
勧衆偈という偈文では、「人間を生きるとはどういうことかということに早く気づきなさいよ」、という、生者に対しての喚起の言葉であるし、続いてあがる正信偈は、仏が生者に懸けられた願いがどうして今の私に伝わってきたか、そしてそれはどんな願いなのか、ということをみんなで確認する内容である。
最後にご和讃がある。
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
つまり、
大事に命を生きて行こうということに気づいた人は、人生を空しく、命を粗末には生きていかないものですよ。そこには、暖かい友情と、大切にしあう素晴らしい出会いがあなたに満ち満ちていて、エゴや自分の都合で人様を阻害していくような生き様は無くなっていくのですよ。
という意味である。
人は宗教なしでは生きて生けない生き物です。どの宗教選ぶのかが問題です。
宗教と言う字は、宗(むね)とする教(教え)です。自分の大切な一回限りの人間の命を生きていく上で、何をその中心に据えて生きていくのか、その中心に据える教えは何なのか。
その中心に据えたものが、「俺さえ良ければそれでいい。自分にとって都合の良いことは大好きで、都合の悪いことは大嫌いや」というものしか見えない自分の狭い考え(これを凡夫の考えという)から出た自分教を据えたとしたら、それが的を得ていた時はいいけれど、的はずれに気づかないままだったら、もがくばかりの人生ではないだろうか。
旧ホームページからの移転