三帰依文というのがあります。実は『開経偈』というものでして、今から仏法に触れようと経文を開く前に読誦する文言なのです。
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
というものです。
前文にはこの身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せんとあるように、まさに今生きている時点で自分を見つめることが出来なければ、あなたはいつの時点で自分を見つけるのですか?と厳しく指摘しています。
後文の無上甚深微妙の法といっても、摩訶不思議なものではなくて、至極当たり前の摂理だといえるでしょう。
中程の三つが三帰依というところです。
仏とは、摂理に頷いていく生きざまのことです。
法とは、摂理そのものことです。
僧とは、支え合って生きていく仲間のことです。
そして、いずれにもまさに願わくは衆生とともにという言葉がついています。
衆生というのは、生きとし生けるものすべてという意味です。
ところが、どうしても私たちは生きとし生けるものすべてと一緒に生きていくことが難しいのです。蛇やムカデと一緒に生きるなどというのは誰でも出来ることではありません。
いやそれどころか、人間同士であっても好き嫌いがあり、顔を見るのも嫌という例もあります。衆生とともにということが難しいのは、何が原因なのでしょうか?
三つのもとどりというものが人間には生えているのだそうです。名利・名聞・勝他というもとどりです。
名利も名他も、肩書きが欲しく、偉い人だと他人から認められたいと思う心です。
勝他というのは、他人よりも勝れた存在でありたいと思う心です。
これが自然にそうなっていくのならまさに人徳と言えるのでしょうが、そうではなく、片意地はって、他人をこきおろしてまで、そうありたいと虚勢を張るのですから始末に負えないのです。
人間の根性とはそういうものが底に横たわっているというのです。大無量寿経の下巻には、人間の根性とはこういうものだということがつぶさに展開されています。
自分が幸せに生きて行きたいと願う時に、それを邪魔しているものは他人ではなく、まさに自分が自分の幸せになるべき道を邪魔しているのです。つまり、敵は自分の中にあるのです。
人間はそれをいつも自分以外のものに転嫁しているのです。転嫁すれば一番楽な生きざまなのです。(転嫁とは都合の悪いことは何でも嫁のせいにするということです)
祟りを恐れて先祖を祀り、幸せになるために先祖を拝み、果ては静かにしていてもらうために先祖を拝んでいるのが仏教のように勘違いしていますが、仏教はそもそも内なる自分の敵を見つけだし、その敵を乗り越えていく力を自分で見つけだす教えだったのです。
ところが、人間は考える葦といわれるように、いろいろと思考を巡らせていきます。果ては、自分が死んだらどうなるかと考えて来たのです。いえいえ、それは昔々のことではなくて、今も自分が死んだらどうなるのかと心配しますね。人間の永遠の課題かも知れません。
死後往生(死んだら必ず極楽へ行ける)を展開していったのは浄土教といわれるものです。浄土教はお釈迦さまが亡くなられて数百年経た頃、仏教が伝搬されていく途中のガンダーラ地方で生まれたと言われています。このガンダーラ地方は十字軍の名残としてキリスト教徒が住みついていたところです。キリスト教の再生(天国へいってもまた人間に生まれ変わることが出来るという考え)と、古代インドからあったバラモン教の輪廻転生(生前の行いによっていろんなものに生まれ変わっていくという考え)とが影響して死後往生(臨終往生)という考えが生み出されたと言われています。(仏像や釈迦像などが描かれ彫刻されたのはガンダーラが最初なのです。)
しかし、この死後往生というのは、生きていく間の不安に対する保証として考え出されたのではないかと思うのです。なぜなら、お釈迦さまは死後のことは何も示唆されていないからです。
お釈迦さまは自灯明法灯明という言葉を残されています。人生という暗闇(迷い)の世界を歩いて行く時に、自分の考えを灯明として生きて行け、法(真実の摂理)を灯明として生きて行けと言い残されています。(自分の考え=法に沿った中での考え 自分に都合の良い考えではない)
経文というものは譬喩がたくさん用いられています。譬喩は譬喩として正しく捉えないと方向を間違うことになります。
仏教は生きていくための灯台の明かりのようなものといえるのです。決して死者を弔い、死後を願うためのものではないのです。
そのことを親鸞聖人は悲歎述懐の和讃の中で述べられています。本当に大事なことを見失ってしまっていて、卜占祭祀に一喜一憂している姿を嘆いておられます。当たるも八卦・当たらぬも八卦といわれますが、そのようなものに自分の生きざまを任せて生きるのではなく、この大切な一つきりの生をどのように生きていくかを、摂理と照らし合わせて自分で考えて行く事が大切なのですね。
私はこの世に何をするために生まれてきたのでしょうか?
私はどこへ行こうとしているのでしょうか?
私はみんなと支え合って生きていこうとしているのでしょうか?
私は私の命を大事にしているのでしょうか?
そんなことは考えなくてもいい。それよりも、うまく付き合って行けばいいんだと誘うもう一人の自分が住みついています。それこそが内なる敵なのです。仏教用語でいうならば『我』(「が」)なのです。自分の中に住みついているもう一人の自分との対峙こそが、人間を生きていくことの意義を見つけさせてくれる道なのです。
見つけ出す支えが仏教なのです。だから、仏教は生きている私には働きかけてくるというのです。
仏教は死者と付き合う道具ではありません。
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