慚愧


 二つの白法あり。よく衆生を救く。
 一つには慙、二つには愧なり。
 慙は自ら罪を作らず。愧は他を教えて作さしめず。
 慙は内に自ら羞恥す。愧は発露して人に向かう。
 慙は人に羞ず。愧は天に羞ず。
 これを慙愧と名づく。
 無慙愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす。
 慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。
 慙愧あるがゆえに父母・兄弟・姉妹あることを説く。


 これは顕浄土真実教行証文類序に引用されている涅槃経の一節です。

 自分の父母である頻婆娑羅王と韋提希夫人を殺して王位に着いた阿闍世に対して、耆婆大臣が諫め教えていく下りに出てきます。

 人には大切な二つの道があります。その道は、生きとし生けるすべてのものの命を大切にしていく道なのです。
 それは、一つは慙(ざん)、もう一つは愧(き)です。

 慙とは、自分で自分の行動や言動を見つめていくことなのです。
 愧とは、他の人が、間違った道に歩まないように忠告を与えることです。

 慙とは、自分の取った行動や言動について、自分自身に恥じることになります。
 愧とは、他人様に対して恥ずかしいと思うことです。

 慙とは、人間としてはじることです。
 愧とは、この大自然の仕組みと願いに対して恥じることです。

 この慙と愧を併せて慙愧というのです。


 慙愧のない人は、人とは呼ばないのです。慙愧を持たない人は畜生と呼ぶのです。
 人は慙愧があるからこそ、父母や自分を導いてくれる人を敬うことが出来るのです。
 慙愧があるからこそ、この世に父母・兄弟・姉妹が存在する事になるのです。

 これは、少し冒険的に言い換えると、聞く・聞く・聞くということでしょうね。
 私たちは、自分に取って都合の良い言葉をいつも期待し、忠告や諫言には耳をふさぎたくなってしまうものです。お世辞や甘言には、ついホイホイと乗ってしまいます。

 自分に恥じ、天に恥じるなどということは、ついぞしたくないものです。
 いつも世界の中心は自分であって、自分の判断がいつも正しいのです。わずかな知識と経験と判断力しかないのにね。

 ふたりのため 世界はあるの♪♪
 この広い世界中に咲く花を 一つ残らずあなたにあげる♪♪

 それを有頂天という。

 自分が正しいと思ったとき、それは本当に正しいのか? と、もう一度考えてみることをしない。
 それは、えてして、財力・権力・地位などという幻のようなものを持ったと錯覚すると出てくる傲慢にしかないのでは。


 真宗門徒は聞法につきる といわれている。
 聞法とは、難しいことを聞くのではない。全身を耳にして、それは正しいことなのですか? と、聞いていくことなのです。

 正しいという物差しは、自分にとって正しいのではなくて、自分も含めてみんなにとって正しいか? という物差しです。そしてそれは、いのちにとって正しいかと言うことです。


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