お寺というのはどうも多面的な評価があるらしい。
一つには人間的な思考をしていく場として、敬虔に自己を見つめる場としての存在だ。
京都駅を降りてすぐ、東本願寺がある。ご影堂という大きな建物の中は常時開放されていて、多くの観光客や参拝者をみることができる。拝観料はない。例外なく、正面に向かってじっと座って自己と対面している人の姿を見ることが出来る。
二つには御先祖の御霊をお祭りしてくれているところとしての存在だ。
たくさんの線香の煙の中で、一心に祈られている姿がある。祈ることによって、幸せであり、幸せが来ることを祈る。
ごく当たり前に見る情景だ。どちらも否定できない人間の願望かもしれない。
ところが一歩田舎へ帰ってみると、お盆やお彼岸はさておいて、日常的にそんな姿をみることは極めて少ない。そりゃ絶対的な流動人口が少ないということも大半の要因であるが、寺の正面を横切る時、立ち止まって手を合わせるなんて光景は滅多にないのである。
三つには日常的には寺は邪魔な存在なのである。
寺が多すぎるのでは?
葬式も宗派にこだわらず、何宗でもやるような寺があってもいいのではないか?
寺の守りは大変だ
そんな思いの方もあるようだ。
どうもそんな思いの根底には、寺は葬式をする所という概念がこびりついているように思えてならない。僧侶というのは死者に寄りつくダニのように思えてならないのかもしれない。
葬儀といっても、別に宗教的儀式をする必要はない。まして、信仰なんて全くないのなら、何のために宗教的儀式にこだわるのかと言いたい。
僧侶もいなければ読経もない葬式ってのはいっぱいある。
本来仏教は葬儀をするために作られたものではない。
釈迦の弟子であった目蓮さんが、
友達の葬儀があるのですが、私はどうすればいいでしょうか?
とお釈迦さんに訊ねたら、
仏教は葬儀のためのものではない。葬儀は世俗のこと。
と言われたという。
しかし、今、多くの宗教が葬儀を行っている。私はその根本は、一緒に生きてきた人をお見送りするということだと考えている。一緒に生きてきたと言うことは、同じ教えに出会い、同じ方向を歩もうとしてきたということだ。
葬儀は最後のお別れの人としての儀式であって、そのために仏教が存在するのではない。仏教を生活の中で共に生かして行くことがあって、最後のお葬式ということになるのではないか?。
そこで、自分の村になぜ寺があるのかという存在理由をもう一度再確認していく必要があるのではないだろうか。
存在理由が見あたらなければ、寺にしがみついている必要はない。
寺にしがみついていないと、先祖の供養をしてもらえないとか、葬式をしてもらえないなどということは、ちょっとばかり的がはずれている。
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