葬式仏教と呼ばれて


 ある本を読んでいて、その冒頭に書いてあることがとても気になった。

 仏教といえば、葬式という冠がついて「葬式仏教」とあだ名されている。しかし、葬式キリスト教とか葬式イスラム教と言うことはまずない。・・・・・。しかし葬式を行うのは仏教に限らない。キリスト教もヒンズー教もイスラム教も神道もみな葬式を行う。どの宗教も厳かに葬式を行う。それにも関わらず、仏教だけが「葬式仏教」と軽蔑的に呼ばれるのは何か。・・・・。(田上太秀著『涅槃経を読む』より)


 坊主が寄り合うと、どうも教義の話ではなく、葬式や法事のことが話題に出る。寺の行事もそうしたことを中心に回っている。そもそも仏教は「死」というものを中心に据えて、その対極にある「生」を見つめて来たはずなのだが、現実はなかなか「生」を見つめる所に至りきらない。

 仏教が伝搬する中で、どうも祖先供養・死後往生ということが強調されてきたからかも知れない。そして、日本における宗教政策も大きな要因なっていると思うのである。
 ☆全国民をどこかの寺の檀家と強制させてきた。(寺檀制度)
 ☆全国民をどこかの氏子と強制させてきた。(氏子制度)
 ☆元々自然崇拝の土俗宗教があった。
などが考えられる。


 日本人は多宗教民俗性を持っている。真宗王国と呼ばれる地方へ行って驚いたのは、寺の数以上に神社がある。私などは、「真宗王国」などと言われると、「神祇不拝」を言われた親鸞の言葉通り、一心一向に真宗門徒をされているものと思い込んでいたが、いや、現実にはそうではないらしいのだ。

 他の国で、キリスト教徒とでありながら、同時にイスラム教徒であるという二重性は見られない。

 初参りは神社、結婚式は教会、葬式は寺、などということは、世界的には希少価値に値いするのかも知れない。

 外国では、宗教的な「破門」ということがあって、教会から破門されると大変な恥辱になるらしい。しかし、日本では、いや仏教では、現実的に破門などということは、一般の人には摘要されない。坊主が宗門から破門されることはあるが、だからといって生活の上で重大な異変が起こることはまずないのだ。
 お寺は(仏教は)、葬式や法事だけのものではない
と、何度言っても聞き入れてもらえない。
 仏教徒でもないのに、なぜ仏式の葬式をするのか
どうしても不思議でならないのが日本人の常識?だ。

 仏教の教えに触れ遇うことを避けて生きてきた人に、私は、葬儀を執行することは耐えられない屈辱感を味わう。
 亡き人が、極楽往生出来るようにお経を唱えてください。
などと言われても、私にはそんな呪術師のような力はない。
  縁なき衆生は度し難し
と言われているが、そのご縁を結ぼうとしても、どうしても「仏教=葬式」という観念から離れてもらえない。

 複数の宗教を信仰するということは、本当に信仰していることではない。欲を満たしてもらうために、おねだりをしているに過ぎない。

 浄穢観というものがあって、「神聖で清らかなもの=浄」の対局に、「汚れてきたないもの=穢」という観念がある。
 浄の領域を神道が受け持ち、穢の領域を仏教が受け持って行くように、長い年月の中で民衆が培ってきたのではないかと考えてしまう。


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