弥陀の本願


 本願とか、あるいは他力本願とか、本願ぼこりとか、どうも「本願」というものが私自身のものとしてではなく、私とは無関係なところに存在し、私の都合の良いときだけ引っぱり出してくるもののように受け止められている方もあるようです。

 そして、「本願に守られているから、死んだら必ず極楽へ行ける」と思っている方もあるようです。

確かに、其人臨命終時阿弥陀仏 与諸聖衆 現在其前 是人終時 心不顛倒 即得往生 阿弥陀仏 極楽国土 と阿弥陀経にはあります。

 真宗では、「本願」から呼びかけられている言葉は「南無阿弥陀仏」であるといいます。では、「南無阿弥陀仏」とは何か? 呪文? お願い文? あなたは「南無阿弥陀仏」とはどんな言葉として受けっていますか? 

 南無阿弥陀仏は、単にパーリー語に漢字を当てただけです。本来の言葉として分解し、それを現代の言葉で表してみると、
 南無=ナーム→はいわかりました。その通りに致します。
 阿弥陀=アミーダ→私の知恵では測ることの出来ない尊く限りない命
 佛=ブッダ→覚者、その通りだとしっかり自覚した人
(決して死んだ者ではない)

では、これらのパーツを組み立ててみますと、
南無阿弥陀仏→命というものは、尊く限りないものですよ。そのことをしっかりと自覚した人の生きざまをしなさい。(本願からの呼びかけ)

命と云うものは、尊く限りないものということをすっかり忘れていました。私は、そのことをしっかりと受け止めて、この人生を生きて行きます。(本願への応え)


 さあどうでしようか。「本願」とは、私とは無関係なところの存在ではなくなってきました。
「本願」こそ、いつもいつも私自身に問いかけられている根底の問題であったのです。「私のいのち」にかかわることでせした。「私の命の大切さ」に自覚したとき、「横にいる人」の命も、同じ大切な命を生きていることに気づくことにつながりませんか?


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