往相・還相 原爆の日を通して


大乗仏教、特に真宗では「往相・還相」という二つの廻向の力を大事に考えています。真宗学的ではなくて、もっと平易な言葉でこのことを理解しようとしますと、


 往相 私が仏になろうと精進していく道です。その道を達成させるためには、深く信じて、仏になろうと念じることです。もっと平たく言ってしまえば、「仏になろうと祈ること」かも知れません。おっと、「真宗は祈りの宗教ではない」と言われていますから、真宗的には不適切なことかも知れません。でも敢えて一般的に言ってしまえばそういう表現の方が受け入れてもらえるかも・・・。

 でも、一足飛びに仏になれるわけではありません。一つずつ階段を上がるように仏に近づいていくのです。

 ところが、7段階にまで到達すると、自分は仏になれたと錯覚し、自信過剰に陥り、たちまちに元の地面に転落していく落とし穴が待ちかまえていると言われます。これを仏教用語では「七地沈空」と名付けられています。

 仏教の初期は、自分が仏になるための教えでありました。今ではその道を「聖道門」とか「小乗仏教」と呼ばれています。

 大乗仏教が起こってきますと、小乗仏教の「自分だけが・・・」という考え方からさらに広がって、「みんなと共に」とか、「誰でも」仏になれる道が考えられてくることになりました。

 何百万人の中でたった一人だけが仏になれるということではなく、この世で苦しみを味わい、困難に直面している人こそ仏になれるのだという道が考え出されたのです。

 その道にはただ一つだけの約束があります。南無阿弥陀仏と深く信じるということなのです。

 南無…………はいわかりました。その通りにします。
 阿弥陀………私の根性では測りきれない大切ないのち。
 仏……………そうです、とうなずいていく姿。

 南無阿弥陀仏という言葉を常に信じ、実行していくと仏になれるということなのです。南無阿弥陀仏と共に歩み生きていく人は、仏と同じであるというのです。


 還相 仏になれたら何をするかということですが、それは還相回向をするということです。まだ仏になれいない人に手をさしのべて、一緒に仏になりましょうと働きかけて行くことでもあります。
 悲しみに暮れている人には、共にその悲しみを共有していく生き様、うれしさも共有していく生き様を「還相廻向」といいます。

 私たちの今の生活をしっかりと見ていきますと、「還相廻向」をすっかり忘れています。

  私さえ良ければ……
  自分さえ金持ちになれれば……
  誰かが何とかするだろう……
  私はそんなことはしたくない。出来れば避けて通りたい……

そんな毎日ではありませんか?


 今年も広島・長崎の原爆の時間に合わせて梵鐘を撞きました。今年でわずかに二回目ですが、「世の中平和であれ」、「他人の痛みを分かち合おう」、「戦争は御免だ」と念じつつ、鐘を撞いたのです。
 心ある方が何人も一緒に撞いていただきました。それが私に出来るささやかな還相廻向の道なのかも知れません。

 でも 世の中にはいろんな方がいらっしゃるのですね。いつまでも原爆の日を引きずっていくのは嫌だとおっしゃった方もいました。歴史を学び知ることは、二度と過ちを犯さない道を探る方法の一つでもあるのです。趣味で歴史を勉強しても、それは往相の廻向だけにとどまってしまうマスターベーション以外の何ものでもないかも知れませんねぇ。

 一瞬のうちに何万人・何10万人の命が消滅していったのです。その日を心に深く刻み、二度あることが三度ないように、毎年記憶にとどめ直していくのがそんなにも嫌いですか?
 このことは単なるイデオロギー運動(?)ではないのですよ。
 大晦日の除夜の鐘にはたくさんの方が梵鐘を撞きに来られます。しかし、原爆の日にはわずかに5~6人なのです。
 人は、自分のためには祈り念ずるが、他人のためには祈り念ずることをしたくないのですねぇ。


 お盆がやってきました。お墓参りなどご無用になされませ。自分の墓参りではありませんよねぇ。遠いご先祖は、もう他人様になっていましょうから。
 還相廻向を忘れたとき、人は地獄の生き物になってしまいます。往相廻向だけでは、私さえも排除される立場とか、私の存在を認めてもらえない生き様になっていきます。
 往相と還相が一対に働いてこそ、人は人として生きていくことができ、「私」という存在がみんなに認められるのです。


 慈悲に聖道・浄土のかわりめあり。聖道(しょうどう)の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益りやくするをいうべきなり。今生こんじょうに、いかに、いとおし不便ふびんとおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々(歎異抄第4条)

代わってあげることはできないが、共感していくことはできますよねぇ。


2006.8.11

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