三途の川の向こう岸は


 人が死ぬと、三途の川を渡っていくと言われている。
以前は、三途の川の渡し賃だとか、あるいは六地蔵さんのお賽銭だとか言って棺桶の中に六文銭を入れたものだ。
 つい最近まで、棺桶セットには、印刷した六文銭が添えられていた。あの世では現在も一文二文という貨幣単位らしい。実に滑稽だ。


 詳しくは知らなくても、地獄の事はおよそよく知られている。その出典とでもいう「佛説地蔵菩薩発心因縁十王経」というのがあって、その中には地獄の事が詳しく描かれている。(十王経というのは中国で作られた偽経と言われている)
 閻魔さん(エンマ大王)というのもこの中に出てくる。

 このお経の書かれた趣旨は、人間というものは自分さえよければという勝手気ままな存在だ。それでは本当に人間を生きたとは言えないということを、地獄という喩えを引き出して、脅し、すかして諭そうとしたものだと思えるのだが、今ではそんな喩えでなく、それが真実のように信じられている面があるようだ。

 十王経では、三途の川には渡り場所が三通りあるようだ。
  山水の瀬 江の深淵 橋渡 だそうだ。
 ところが、この渡り場所を渡っていくと、その向こう岸に待ちかまえているのは、奪衣婆(奪衣鬼)と縣衣翁(懸衣鬼)という二匹の鬼である。
 奪衣婆は死者の着物をはぎ取って縣衣翁に渡すそうだ。縣衣翁は、岸に生えている衣領樹という大木にその死者の着物を投げ上げるそうだ。
 不思議なことに、死者が生前に行なった悪行の重さに比例して、悪ければ悪いほど高い枝に着物が引っかかるというのだ。

浄頗梨鏡(じょうはりきょう)という鏡の前に連れ出されると、あたかもビデオで再生されるがごとく、生前の悪行がことごとく映し出されるというのだ。
 死者はいろいろ弁解し、取り繕い、ごまかしても、一目瞭然となってしまい、ついにはうなだれざるを得ないと言う。
 五七(5七日)の亡人の息は静かに聞こえる。罪人の心恨は未だ甘情せず。髪を束ね、頭を仰ぎ、業鏡を見る。ことごとく先世の事を知り分明す

 49日が過ぎて、生前の悪行を反省し、佛の教えをあらためてしっかりと聞くことによって、極楽への導きがあるという。
 地獄に仏とはまさにこのことか。
しかし、何にもしないでは、そのまま地獄に住みつく事になる。

 十王経では、人は死んだら必ず地獄を通過しなければならないらしい。
 三途の川を渡った所に、極楽と地獄の分かれ道があるのではなく、三途の川の向こう岸は必ず地獄だということだ。生前裁判所があるということか。

 十王経では、みなさんのご先祖様は必ず地獄を通過されていることになる。
出来ることなら地獄はゴメンだ。


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