つい最近、古い友人のお通夜に行ってきました。
彼は真宗(西派)の寺の住職をしながら放送局に勤めていた人でした。知り合ったのは放送の番組を通してで、彼がプロデューサーで、私が番組の中の短いコーナーのコメンテーターとしての関係でした。いわゆるバラエティー番組で、毎週一回の生放送でした。
何度目かのある日の打ち合わせの中で、ついつい雑談に及んだところ、お互いに真宗の坊主であることが判り、びっくりし合ったものでした。彼は本願寺派(西)、私は大谷派(東)だったということです。
その後、篠山で開かれている「ビデオ大賞」というコンクールの審査委員長も務めてくれました。そもそもの出会いはビデオが取り持つ縁でした。
因みに彼の父は、『真宗新辞典』編纂の顧問をしたり、たくさんの著作を残した本願寺派の有名な真宗学者であることを後で知ったものでした。
おやじが偉すぎて、息子の私はあきまへん。いつもおやじと比べられて・・・。
とは、いつもそっと漏らしていた彼の述懐でした。
彼が退職して随分になりますが、癌を持っていたために、先日とうとう永別する時がやってきました。
昨秋、『東の坊主はどんな法話をするのか聞いてみたい』ということで、彼の寺の報恩講に招かれたのが最後の出会いでした。依頼があったのは一昨年のこと。
(彼)来年の話で、鬼が笑うでしょうが・・・・・。
(私)いやー、生きていたらお伺いします。
(彼)そうでんなー。お互い、一年先はわかりまへんからなー。
というやりとりがあったのです。
寺を遠く離れて日常を送り、寺へ戻るのは春秋の彼岸会とお正月とお盆、そして報恩講の時ぐらいという忙しい人生の彼でした。たびたびシルクロードへも取材に行っていたようでした。
訃報を受けたのは早朝。その夕刻には通夜を勤めるということでした。
昨秋に出会った時は、癌の闘病を続けているとは言いながらも、顔は至って元気で、外見は健康そのものでした。二人で弁当を突きながら、再会の四方山話が盛り上がったものでした。
一年に一度おくる「山の芋」と「黒豆の枝豆」が大好物だった彼でした。
いつかはとは思っていたものの、まさか急に・・・・。
最後のお別れをすべく、電車に乗って、彼の住居の近くの斎場へ出かけました。国元の寺でのお葬式ではなく、門徒の方々も斎場の方へ出てこられていました。
始まる前に、斎場のスタッフが、何やらセットを移動しているのです。私は、
それぞれ各宗教のお葬式やお通夜には習熟しているはずだろうに・・・?
と、少しばかりスタッフの動きに疑問を持ったのです。
お通夜の勤行が始まりました。静かに厳かに、淡々と「正信偈」が始まったのです。
私たちの所では、正信偈か阿弥陀経が始まると、間もなく親族や弔問者が焼香を始めるのです。
親族や弔問者が多いと、お経や偈文の間には焼香が終わりません。そのため、「なまんだー」と何度も何度も繰り返さねばなりません。昔は、焼香が終わるまで、「阿弥陀経」の中の「六方段」を繰り返したり、あるいは「無量寿経」の中の「重誓偈」をくっつけたりと、まるで焼香のためのBGMの様相を呈していました。
私自身も、お経や偈文がBGMの様相を呈していることにものすごい反発を持っていたのです。他宗では「止め焼香」などと称して、親族の中の一人が最後の焼香をして、『止め焼香 ○○様』などと司会者から紹介されている場面もあります。要するに「これで焼香は済みますよ」という僧侶への合図です。
近頃、デパートや大きな書店に行くと、買い物の手提げ袋にビニールカバーを掛けてくれる時があります。外に出て初めて判るのです。
あー、外は雨だったのか・・・・。
外が雨になると、店内に流されているBGMが特定の曲に変わり、店員に「外は雨だから、買い物袋にビニールカバーをするように」という合図があるというのです。「止め焼香 ○○様」というのも、実はこれと全く同じ効用を持っているのです。
しかし、よく考えてみると、お経や偈文は、決して焼香の為のBGMではありません。
彼のお通夜では、「正信偈」が読誦され、「白骨のお文」が拝読され、「法話」がなされました。そして法中方(僧侶)が退席されると焼香台が用意され、親族、そして弔問者が焼香することとなりました。
焼香をして、お別れのご挨拶をすると弔問者はそのまま退席し、出口で「粗供養の品」(香典返し?)を受け取って帰ることとなりました。
読経の最中に焼香をすると、それまで静かに会場に居た人たちが、妙にガサガサとざわめき、挙げ句の果てには私語が飛び交い、香典返しの品物も嵩張って、ガサゴソと小うるさい事。
やかましい! 静かにせい!
と思わず立ち上がって一喝したい時があるものです。
静かに心を巡らし、お別れに臨むとしたら、どういうお通夜でありお葬式である方が、より人としての心が保てるのかと思うと・・・・・。
その後、京都へ行くことがあって、このことを話したら、
お葬式やお通夜は、それぞれの地方での習慣もあり、手次住職の考え方もあって、どのように執行されても良いのですよ。
という答えが返ってきた。
彼のいのちと引き替えに示してくれたお通夜のあり方を、私は次から実行していく事にしました。
因みに、彼のお通夜の法話の最初の出だしは、
あんたら、お通夜ってのは何か知ってるか? 何で黒い服に黒いネクタイをして来てるんや?
仏教徒は朝夕お勤めをすることを習慣としてるのや。今夕は、○○君がお勤めできないから、みんなが○○君と一緒に「お夕事」のお勤めをしているんや。あんたらは毎日、朝夕のお勤めの時に、わざわざ黒い服と黒いネクタイに着替えてお勤めをやっとるんか?
と、私たちに向けての痛烈な言葉がありました。形骸化しているお通夜やお葬式に対する目覚めでもありました。上には上があるものでして・・・。、お別れに臨むとしたら、どういうお通夜でありお葬式である方が、より人としての心が保てるのかと思うと・・・・・。
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