明治時代までは一般庶民には苗字がなく、限られた人のみが「苗字帯刀」を許されていたというふうに習ってきたが、どうやらそうではないようだ。
つまり、大方の人が何らかの形で苗字を持っていたものの、その苗字を使うことが許されていないので、○○村△△兵衛と名乗っていたに過ぎなかった。
正式に苗字帯刀を許されていないという家でも、古い家に「塗りのお膳」等があって、裏を見ると苗字が書いてある事がある。そして、過去帳にも苗字が記されている場合もあるのだ。
明治3年9月19日に出された太政官布告を注意深く読んでみると、
自今平民苗字被差許候事
これより平民、苗字差し許され候こと
となっている。
つまり「つけなさい」というのではなく、「使用することを許す」というのであるから、今まで使えなかった苗字を使うことが出来るということになったわけである。
私たちが習ってきたのは、明治になってみんなが苗字を用いることになり、名主や坊さんに頼んで苗字を付けてもらったというのであるが、どうもそれは全てではないということである。
農村では今でも「株地」といって同族の結合が強い。同じ苗字であっても「株が違う」と、血縁関係は全くなくて、冠婚葬祭の結びつきはない。
「株」とは、つまり血縁関係のことであり、ワクチンの菌なども「株」という遺伝要素を問題にするが、「株」とはうまいことを言ったものである。
血縁関係が同じ者は、どんなに離れて生活していようが同じ苗字である。明治になって苗字を使う事になった時、「我々の株では…?」と、いわゆる非公認の苗字を「株」の者が確認して名乗ったのである。
落語にあるように、「じゅげむじゅげむ ごこうのすりきれ」などと、思いつきで付けたものでもなく、松の木があるから「松木」、溝のそばに住んでいるから「溝端」などと付けたものではない。
確かに大昔に出身地の地名を「株」全体で隠れ苗字として持っていたことはあっても、明治になって突然付けたものではない。
明治5年9月14日の太政官布告では
自今僧侶苗字相設住職中ノ者ハ某寺住職某氏名ト可称事 但苗字相設候ハヽ管轄庁ヘ可届出事
これより僧侶は苗字をあい設け、住職中の者は○○寺住職△△▽△と称えるべきこと ただし、苗字あい設け候はば官庁へ届出るべきこと
と触れを出しているが、これらの住職や僧侶にしても、元をただせば全て俗人の出身であるから、苗字についてもあれこれたどって行けば大方の見当が付いてくるのである。
ところが、そうは言ってもどうしても「株」にたどり着けない者や、祖先のルーツがはっきりしない者もあった。布告が出されて4年が経過しても苗字にたどり着けない者があった事は確かなのだろう。そこで、
明治7年2月13日の太政官布告では
平民苗字被差許候旨明治三年九月布告處自今必苗字相唱可申尤祖先以来苗字不分明ノ向ハ新タニ苗字ヲ設ケ候様可致此旨布告候事
平民苗字差し許され候旨、明治3年9月布告のところ、これより必ず苗字あい称え申すべし。もっとも、祖先以来苗字不分明の向きは、新たに苗字を設け候よう致すべく、この旨布告候こと
となっている。
つまり、前に述べたように、祖先以来、苗字を持っていたのが普通であるという認識なのであって、「どうしても祖先以来の苗字が判らない者は、新たに苗字を付けること」というお触れである。
私たちは、明治になって、みんなが苗字を付けるようになり、慌てて付けて貰ったというような事を習ってきて、それを信じていたのだが、根ほり葉ほり調べてみると、それは必ずしも真実ではなく、大多数の者は苗字を隠れ持っていたということに突き当たってしまうのである。
学校で習う歴史は、ある一面のみが誇張され、それが真実であるが如き印象を持ってしまうが、証拠を探し、物事を正しく見ていくと実に面白い事に出合うことが多いものだ。
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