宗門人別帳


島原の乱とキリシタン禁制

 江戸時代に人々の身分制度を固定していった大きな要素に「宗門人別帳」というものの存在がある。
 豊臣秀吉が天下を制覇し、彼は二度と自分と同じように天下を取る者が出ないように様々な工夫を凝らし、自己の権力保持を図っていった。その一つには、税収を明確にするための「太閤検地」があり、もう一つには「刀狩り」が実施されたことである。つまり、農民から搾り取るための根拠を明確にするとともに、叛逆されることを未然に防ごうとしたのである。一介の農民の出自から天下をとったわけであるから、自分と同じように天下を取って代わる者の出現を恐れたのである。

 しかし彼の政権維持は一代に終わって行った。それは彼の政権システムが旧来の戦国時代のシステムから脱却出来ず、家臣団の統率にほころびが出始めたことと、彼が後継者として望んだ子供が、彼の老境になってから恵まれた事もその運命を左右したのである。

 政権は徳川家康に移って行った。家康とて、自分の政権が他の者にとって変わられることがないようにしたいのは当然の帰結であって、様々な法度を発して政権維持に勤めた事はよく知られているところである。
 家康が政権を手に入れたのは征夷大将軍になった1603年であった。ところが、1637年、孫の家光が将軍職を継承している中で、天草四郎をリーダーとする「島原の乱」が勃発したのである。

 幕藩体制を確立させる結果として、大名統制の参勤交代の実施、公儀普請などを大名に課し、各地の領主は財政難に陥っていった。そのため、過酷な年貢を領民から取り立てることとなり、農業を放棄して故郷から逃げ去って行く者が続出するようになってきたのである。そのため「逃散禁止令」を布告し、相互監視を目的とした「五人組制度」を設け、農民の領外流出を防止しようとしたのである。

 このような過酷な政治が行われていく中で、島原のキリスト教徒と浪人が結合して、激しい反権力闘争が勃発したのである。約3ヶ月もの間、幕府の大軍との攻防が続いたのであるが、立て籠もった島原城の落城にあたっては、反権力とされたキリスト教徒や浪人達は一人残らず殺害されてしまったのである。

 秀吉もキリシタン禁制を出していたが、この事件をきっかけに徳川政権は一層キリシタンに対して警戒するこことなり、島原の乱の翌年には、幕府直轄領に対して「宗門人別」を実施したということである。そして、この「宗門人別」は1671年には全国に実施されるようになり、幕府の機関として「宗門改掛」も設置されることとなった。

 「宗門人別」というものの内容は全国民の把握であり、現在の戸籍に記載されているものと殆ど同じ内容のものである。家族毎に記載され、出身地・生年月日・続柄・宗旨・身分・収穫高が記載されているのである。つまり戸籍謄本+税務徴収台帳+宗旨台帳+身分台帳なのである。

 これが何故「宗門人別」と名付けられたかということであるが、つまり「島原の乱」でキリシタンに手こずった幕府は、信仰の有無に拘わらず、全国民を身近な仏教寺院の檀家として所属させ、所属しない者に対しては「異教徒」(キリシタン)として取り締まるための台帳としたのである。「○○寺の檀那である」という証明は庄屋や住職が行ったのである。裏返して言えば、庄屋や住職は人々の生殺与奪の権限を持たされるようになっていったのである。(檀家:寺の信徒であり経済的スポンサーであるという意味の仏教用語)


寺の権威化

 「宗門人別」はやがて寺の権威を絶対化していくことになった。この制度を請け負わされたのは寺であったが、キリシタンであるかどうかという判別と証明の権限が住職に委任されていったのである。もし仮に住職が、「あの家の○○はキリシタンではないか?」と一言役所に漏らしたとすれば、その一家は過酷な取調べをうけ、あるいは冤罪でありながらも処罰を受けていくかも知れないことは容易に推測できるのである。住職には檀家の生殺与奪の権限が派生してくるのである。

 人が亡くなると「枕経」というものが行われる。これは浄土教において平安・鎌倉時代におこった「無常講」から出ているというのであるが、江戸時代のこの「宗門人別」が制度化されて以後は、どちらかと言えば「検死」の役割が大きく占めていると考えられる。つまり、「仏教徒として死んで行ったか、異教徒として死んで行ったか」という判別なのである。

 人が亡くなると枕元に仏教に因んだ物を置き、両手を合掌させ数珠を持たせて僧侶を待つのである。これが、枕元にクルスを置き、手にはロザリオを持たせていたら、一家は見事に破滅するのである。

 一方、旅行に当たっては通行手形という物で身元の証明をするようになっていった。当然、戸籍とも言うべき「宗門人別」を証明している者が発行することになるので、寺の権威は益々増加していくことになる。現在も盆暮れの挨拶は医者とお寺を欠かさないという方があるが、実はこれこそ、自分の命を保障してくれる代償としての行為なのかも知れない。


明治の「宗門人別」

 明治4年に大蔵省布告で従前の「宗門人別」が廃止されたのであるが、これで宗教を利用した国家統制が収束したというと、実はそうではなかったのである。

 明治4年7月4日に次のような布告が発せられているのである。
 第322 太政官 明治4年7月4日
今般大小神社氏子場取調ノ儀左ノ通被定候事

規則
一、臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事
 但社参ノ節ハ戸長ノ證書ヲ持参スヘシ其證書ニハ生児ノ名出生ノ年月日父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ證シコレヲ神官ニ示スヘシ
一、 即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及ヒ姓名住所出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ナテ渡スヘシ
  但現今修行叉ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神社ヨリ受ケ難キモノハ寄留地最寄ノ神社ヨリ本條ノ手続ヲ以テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス
一、他ノ管轄ニ移転スル時ハ其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ所持スヘシ
一、 死亡セシモノハ戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ
 但神葬祭ヲ行フ時ハ其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ記シ更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスへシ尤別ニ神霊主ヲ作ルモ可為勝手事
一、 守札焼失叉ハ紛失セシモノアラハ其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違ナキヲ證シ改テ申受クヘシ
一、 自今六ケ年目毎戸籍改ノ節守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ
一、 守札ヲ受クルニヨリ其神社へ納ル初穂ハ其者ノ心ニ任セ多少ニ限ラサルへシ
右ノ通ニ候條取調相済候へハ早々可届出尤不審ノ廉有之候ヘハ神祇官へ可承合侯事
(『法令全書』より)

そして全国の神社を格付けし、文明開化・富国強兵・人心の統一という観点から、国家神道への道を進むことになったのである。当時の裏話として、「諸外国には国教というものが認知されているが、日本の仏教界の廃退振りを見ると、仏教を国教と定めるにはあまりにも現状にそぐわない。かと言ってキリスト教にするわけにもいかない。一番妥当なのは神道である」ということになったと言われている。

 天皇家が神道になったのはこの時期である。天子天台 公家真言 公方浄土 禅大名 乞食日蓮 門徒それ以下 という言葉がある。つまり天皇の宗旨は天台宗なのである。天皇が出家して僧侶の態になるのは歴史でよく見るのだが、天皇が引退して神官になった例は見ることがないのである。

 明治4年7月4日の太政官布告は、第二次世界大戦に続く「神国日本」という名の下に全体主義・軍国主義の元になってしまったのである。

 政治が宗教を統制し、宗教を利用して民衆の生き様を制度化していくと、いったい何か起こってくるのかということは、歴史を見ればわかることである。

 私たちはいまもその亡霊に取りまかれて生活をしている。農村部に移住すると、その村の氏子になることを暗に強制されたりすることがある。それは、この明治4年の「神道国家」の意識的残骸が今も生きていると考え等玲ルのではないだろうか。

 「21世紀は人権の世紀」と言われている。世の中から根拠のない差別を無くしていくことが、人が人として生きていく上で最も大切にされなければならないものの一つである。「どのようにして差別がうまれたのか」、「どのようにして差別が支えられてきたのか」ということを確かめることは、単に歴史を歴史として見るのではなく、その事実の上に立って、根拠のないものを習慣化していかないことの歩みの第一歩なのだ。その第一歩のあゆみの継続と広がりこそが、差別解消への大きな原動力になっていく。


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