勧衆偈 現代文解釈

道俗時衆等    各発無上心    生死甚難厭    仏法復難欣
共発金剛志    横超断四流    願入弥陀界    帰依合掌礼
世尊我一心    帰命尽十方    法性真如海    報化等諸仏
一一菩薩身    眷属等無量    荘厳及変化    十地三賢海
時劫満未満    智行円未円    正使尽未尽    習気亡未亡
功用無功用    証智未証智    妙覚及等覚    正受金剛心
相応一念後    果徳涅槃者    我等咸帰命    三仏菩提尊
無碍神通力    冥加願摂受    我等咸帰命    三乗等賢聖
学仏大悲心    長時無退者    請願遙加備    念念見諸仏
我等愚痴心    曠劫来流転    今逢釈迦仏    末法之遺跡
弥陀本誓願    極楽之要門    定散等回向    速証無生身
我依菩薩蔵    頓教一乗海    説偈帰三宝    与仏心相応
十方恒沙仏    六通照知我    今乗二尊教    広開浄土門
願以此功徳    平等施一切    同発菩提心    往生安楽国


 勧衆偈は観経疏(疏:解説という意味。善導大師が「観無量寿経」を解釈した著物)の最初の部分に出てくる偈文です。「勧衆偈」とも「十四行偈」とも「帰三宝偈」とも呼ばれます。

 「勧衆偈」(かんしゅうげ)とは、諸々の衆生に仏道を勧める偈文という意味です。
 偈文の「先勧大衆発願帰三宝」という文言から採ったのでしょう。大谷派(東)ではこのように呼ぶことが習いとなっています。
 「十四行偈」(十四こうげ)とは、全文が四句一行で、十四行で成り立っているためです。この呼び方はいわゆる「通称」ということです。
 「帰三宝偈」とは、仏法の根本である三つの宝(三宝:佛・法・僧)に帰依しなさいと勧めている内容だからです。
 「説偈帰三宝」という文言から採られたものでしょう。これは本派(西)ではこのように呼ぶ習わしとなっています。
 しかし、いずれの呼び方も後世に付けたもので、善導大師は特にこのような呼び方をされませんでした。ただ、観経疏の冒頭に、善導自身の表白として書き記されたものと理解します。


 話は横道に逸れますが、今、一般的に眉をひそめられているのは、「仏教は葬式仏教だ」ということです。
 確かに、そういう面が強調されている事は否めません。それは、日本の仏教が、国家鎮護の道具として政治的に利用され、また、その政治の権力になびいて、「我が宗」を維持発展させようとしてきた姿勢もありますし、日本人の祖先崇拝・先祖供養といった感情にも大いにその原因があります。そして、仏教を広めるための方便として「十王経」のごときものの普及も大いに影響しています。

 いま、普通のごくありふれた考え方は、「葬式や逮夜などは、死者がゆくべき所へ行くように遺族が勤めてあげる」いう観念が支配していることも事実です。「十王経」のことは、簡単に記しているので参考にされたいが、いかにも表面だけをみていると、「お葬式」も「七日・七日のお勤め」も、まさに「十王経」の世界そのものなのです。

 ある坊主と、「どうして真宗の葬式には、勧衆偈と正信偈なのかなぁ」と話した事があります。
 「親鸞が、『死んだときは正信偈を淡々とみんなで唱和してくれたらよい』という事から始まったと聞くが?」というと、
 「そんなことは聞いたことがない。偈文をあげるのは単なる儀式なんだから、何でも良かったのではないか?」との返答であった。
 私は心の中で、「じゃぁ、『十王経』をあげて、地獄の恐ろしさを知らせてやったら・・・。葬式をやっている遺族の思いとぴったりじゃんか。七日勤めの意味も、追善供養のこともちゃんと出てくるんだから・・」と思った。


 真宗が何故「勧衆偈」を用いるのかは、言わずと知れた深い意味がある。
 この偈文は、真宗ではお葬式の時に「棺前勤行」(お内仏に向かって勤める勤行で、告別式に先立って行われる)の偈文として勤められます。

 死んでしまえば元の木阿弥ではないですが、最早、仏法を聞くことも、人生をどのように生きればよいのかということも、すでに手遅れ。
 この偈文は、決して死者に手向ける内容ではありません。親族・知友の死を目の当たりにして、仏法に目覚めなさいよと、今まさに生きている人々に語りかけているのです。
 そして、正信偈をあげるのは、「念仏往生の願」が、どのようにして今日の私に伝わってきたのか、そして、念仏とは何なのかが書かれている親鸞の思いを、みんなで再確認していくために正信偈をあげるのだと確信しているのです。
 死者のための葬儀なら「十王経」がふさわしいし、生者のための葬儀なら「勧衆偈」がふさわしいと思うのです。


 ところで、勧衆偈を現代意訳しようと頑張ってみたのですが、おっとどっこい、そうそう簡単に、仏教の用語や意味を知っていない方にも理解して頂くようには、大変な文言の推敲作業となりました。
 中野良俊師が、「勧衆偈」について20回にわたって講義されていますが、それが本となって出版されているものの、2冊にもわたっています。
 つまり、わずか4句14行とはいうものの、それは大乗仏教のエキスとなっているため、ちょっくらちょいとは短く現代意訳が難しいのです。こんな物に手を染めなきゃよかった・・・・。

 現代意訳を展開するにあたって、私は、「帰三宝偈」という呼び方と「勧衆偈」という呼び方では、内容の意味が多少違ってくるのではないかと気づいたのです。
 日頃何気なく偈文の概要は理解しているつもりで読んでいるにもかかわらず、私自身にも、いや、仏教用語や、用語を成立させている思想や論理が理解できない初歩の方にも、善導の意図を出来るだけ現在の一般言語を使って伝えていこうとすると、偈文の題名(呼び方:「帰三宝偈」なのか「勧衆偈」なのか)によって、呼びかけのインパクトが違うように思えるし、「帰命」という言葉の接尾に付ける送り仮名が変わってくる事に気づいたのです。
 真宗聖典では、目次では『「帰三宝偈」(十四行偈・勧衆偈)』と表記され、本頁の表題では「帰三宝偈」となっています。
 ところが、『声明作法委員会・東本願寺式務部校閲 法蔵館発行の「葬儀中陰勤行集」』の中には、「帰三宝偈」という呼び方は一切出てこないのです。すべて「勧衆偈」となっているのです。
 どだいこのあたりがおかしいのです。
 どちらがおかしいかというと、「真宗聖典」の表記だと私は思います。

 親鸞聖人は、「正信偈」の中で、「善導独明仏正意」と明記され、いま私たちは、ここで区切りをつけて調声することが慣わしになっています。
 七高僧がそれぞれ研鑽され、立派な業績を残され、親鸞にまで相承されてきたにもかかわらず、親鸞は、あえて善導には、「独明仏正意」(だけがorひとり、仏の正意を明らかにした)というのです。
 そうすると、他の六高僧は「仏の正意」を明らかにしなかった、あるいは、善導には劣った業績だったというのでしょうか。

 私は、善導が「観無量寿経」を解釈し、「観経疏」を表していく中で、彼は確かな信心を仏の言葉(観経)の中から得たのであると・・。そして、それは自分だけの信心ではなく、これを他の大衆に広く伝え広めていかめばならないという自然な行動に出たということだと思うようになりました。

 それは善導の自信であり、善導の採る教人信だと思うのです。自信から出る教人信は、「帰命したてまつる」などというような帰命していく主体が曖昧な或いは善導一人の表白に終始してしまうような表現であるはずがないのです。

 善導の必死の思いは、前文の「先勧大衆発願帰三宝」にあると考えます。聖典では、「先ず大衆を勧む。願を発して三宝に帰し、」となっています。

 「先ず大衆を勧む。願を発して三宝に帰し、」、そして以下の14行に繋がっていくのですが、それでは「先ず大衆を勧む」というインパクトはいったいどうなってしまうのでしょうか。
 願を発し三宝に帰し得たのは善導そのものであったからこそ、教人信としての「勧衆偈」を善導は書くことになったのです。とすれば、この前文は、「先ず大衆に勧む。願を発して三宝に帰せよ。」と読むべきではないかと思うのです。
 「帰命は帰依なり、弥陀の召喚なり。」と言われています。
 その通りだと思います。

 「召喚」とは「絶対服従」ということです。それを「帰命したてまつる。」というニュアンスでは、善導の達した「帰三宝」がいかに大切かということを大衆に勧める言葉として「ふがいなき骨抜き読み」かと思うわけです。

 そして、浄土和讃を始め、多くの親鸞の著した「ご和讃」は、必ず「・・・に帰命せよ」となっています。
 蓮如の著した「お文」では、「・・・念仏申すべきものなり」となっています。
 いずれも断定されている表現なのです。
 これは、曖昧な語尾の表現ではないのです。「しなさい」と勧めているのです。

 以上のような解釈から、私は、「帰命せよ」と読むことにしました。
 したがって、「聖典」とは違った読み区切りになっています。それはあくまでも「勧衆偈」として読んでいきたいからです。


 親鸞聖人は「教行信証」の「行の巻」の最後に「正信念仏偈」を書き残されました。改めてよくよく読んでみると、
 善導独明仏正意  矜哀定散与逆悪  光明名号顕因縁  開入本願大智海
 行者正受金剛心  慶喜一念相応後  与韋提等獲三忍  即証法性之常楽

善導独り、仏の正意を明かせり。定散と逆悪を矜哀して、光明名号、因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、行者、正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむ、といえり。と表されています。

 私は聖典の理解について、異端と言われるかも知れないし、いよいよ「自我の分別者」と哄笑されるかも知れませんがね。


先勧大衆発願帰三宝
まず大衆に勧む。願を起こして三宝に帰依せよ


道俗時衆等 各発無上心
 仏法にもっぱら励んでいる人も、社会で生活している人も、まさに今生きている人々は、それぞれこの上ない覚りの心の持ち主になろうと決心せよ。
生死甚難厭 仏法復難欣
 人が生まれ、死んでいくという、自分にとっては実に避けて通りたい事実からはどうしても逃れることは出来なし、人間は、「我こそ・・・」と思う心を持っているから、物事の真実を説いている仏法に出会うことは少なく、出会おうとすらしないものなのです。
共発金剛志 横超断四流 願入弥陀界 帰依合掌礼
 お互いに、金剛のような堅い決意を起こしましょう。それは、「生・老・病・死」は、誰しも当然必ず身の上に起こって来るのです。それをあれこれ迷い悩み、惑いの濁流に翻弄されているのです。何をとまどっているのですか。ボツボツ自分が努力するのではなくて、絶対他力の力によって、即座にその迷路を捨てて(努力による克服ではなくて、当たり前に起こってくることに、起こってほしくないと足掻くのではなく)、いのちの尊厳を認め合う世界に入っていくことを心に思い、いのちあるものとして生を受けたことに、頷いていく身になりなさい。
世尊我一心 帰命尽十方 法性真如海 報化等諸仏
一一菩薩身 眷属等無量 荘厳及変化 十地三賢海
時劫満未満 智行円未円 正使尽未尽 習気亡未亡
功用無功用 証智未証智

 世尊よ。私(善導自身のこと。以下同じ。)を取りまいているすべての絶対の真理と、阿弥陀仏や阿弥陀仏が私を導くために私に合わせて現出されておられる諸々の仏と、一つ一つの菩薩と、菩薩をとり囲む無数の方々と、荘厳され、私にわかるように変化されておられる菩薩と、菩薩になられようとしている方や菩薩行を行われている賢い方と、時期が縁熟していようがいまいが、智慧と菩薩行のうちの五行(布施行・持戒行・忍辱行・精進行・禅定行)が出来ていようといまいと、私の煩悩が尽きていようといまいと、煩悩の根本の因が亡くなっていようといまいと、煩悩に解き放たれて私が自在であろうとなかろうと、私は一心に随っていきます。
妙覚及等覚 正受金剛心 相応一念後 果徳涅槃者
 仏や仏と同じさとりを得ている方から、私は、確かに金剛のような堅い心を授けていただき、仏の大慈悲心に応えた後には、この上なく迷いのないさとりの者となっていくのです。
我等咸帰命 三仏菩提尊
 われら(善導を含めたすべての人々を指す。以下同じ。)はみな、法身・報身・応身として私たちの前に現れて、我らを導いてくださる仏に随うべきです。
無碍神通力 冥加願摂受
 障げられることのない仏の絶対の力により、浄土に往生したいという願いは受けとられ、護られていくのです。
我等咸帰命 三乗等賢聖 学仏大悲心 長時無退者
 われらはみな、仏の大悲心を学び取り、もはや元の惑い多き世界に戻ることのない、声聞・縁覚・菩薩と言われる覚りを開かれた方々の教えに随うべきです。
請願遙加備 念念見諸仏
 請い願わくば、念ずるごとに諸仏を見ることができるよう、遙かに我等を護り包みたまえ。
我等愚痴身 曠劫来流転
 われらは愚かで真理を分別する事が出来ぬ身を持って、煩悩のままに永劫の過去より流転翻弄・迷いの中に過ごしてきた。
今逢釈迦仏 末法之遺跡 弥陀本誓願 極楽之要門
 いま釈迦仏に、濁悪・邪見・疑い謗りの醜い世にありながら、釈迦の残された教えに、そして、極楽浄土へ往生する大切な生き様に出会うことが出来た。
定散等回向 速証無生身
 雑念をやめて静かに心を統一する行(定善)と、心の乱れたままで善を行う(散善)等は、すべて如来の願いに包み込まれているものなのです。その如来の絶対慈悲の力によって、すみやかに浄土のさとりの身となることを証そうではないか。
我依菩薩蔵 頓教一乗海 説偈帰三宝
 私(善導自身のこと)はいま、菩薩となるために説かれた教えと、この娑婆世界にいて、この身そのままで救い取られる教え(頓教)と、生きとし生ける者を等しくすくい取る教え(一乗海)により、三宝(仏・法・僧)に帰命せよとの偈を説くのです。
与仏心相応
 これはまさに仏の我らを救い取ろうとする大悲心とぴったり合致することなのです。
十方恒沙仏 六通照知我
 我らを取りまく数え切れない無数の仏の六神通力(自他のすべてを知る宿命通・あらゆる世界を見渡す天眼通・すべての声を聞く天耳通・あらゆる衆生の思いを知る他心通・思い通りにどこへでも行き、自在に姿を変え、対象を思いのままに出来る神足通・煩悩を断ち、迷いの世界に生まれない漏尽通)が我らを照らし知り尽くしているのです。
今乗二尊教 広開浄土門
 いま釈迦と阿弥陀の教えに乗ることにより、広く浄土の門がひらけるのです。
願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国
 願わくば、絶対真実の働きをこの身に受けて、生きとし生けるもの全てのいのちに目覚め、限りあるこの身を輝かしく生きていくことに目覚め、人が人として生まれて来て良かったと言い合える生きざまをしようではないか。


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