阿弥陀経を読み解く

 阿弥陀経は他のお経と違って、お釈迦さんが一方的に語りかけていく形式になっています。他のお経は、お釈迦さんの弟子が問いかける事に対して、その問いに答える形に構成されているのですが、この阿弥陀経はそうではありません。

 阿弥陀経が説かれた当時のインドの世界は、群雄割拠の時代であり、生活も苦しく、いつも外敵に怯え、命をつないでいくことすら困難な民衆の生活の実態がありました。

 熱射を避け、日々の食べ物に心配し、命をつなぐ水さえも泥水をすくって飲まねばならない生活環境でもありました。夜になると、虎やオオカミが餌を求めて村の中に出没しました。毒虫も足下を這い、不衛生な中で病気も蔓延しました。子供達は薪を拾い、それも十分ではありませんでした。牛糞を集め薪の代わりに使ったり、遠くまで水汲みにも行きました。
 夜になっても、明かりは乏しく、ランプに使う油さえ求めることは困難でした。

 何とか自分の命をつないでいくのに精一杯の生活を送る反面、一部の上層階級の人々は生まれながらの裕福な生活を過ごしていました。しかし、地位と権力を求めて、たびたび内乱が起こり、親子兄弟の間でさえ殺戮が繰り返されたのです。

 自分が生きていくためには、隣人はおろか、肉親さえもおとしいれ、奪い去り、売り飛ばし、殺して行かねばならない現実もありました。人がしてはならないことと判っていても、そうせざるを得ない生活の実態があったのです。

 人々の間に広まっていたのはバラモン教でした。カースト制度により、それこそ生まれながらにしてその生涯が階級として決まっていました。いくら努力しても、生まれによる差別・区別は乗り越えていくことは出来なかったのです。

 それぞれの部族は、城壁に囲まれた中で生活をしていましたが、城壁の外には、アウトカーストと呼ばれるその時代の最下層に置かれた人々が生活していたのです。

 釈迦の「四門出遊」という有名な話があります。城の東西南北のそれぞれの門から外の世界を見ると、そこはまさに地獄としか言いようのない民衆の生活があったのです。

 生まれて、ぼろ布に包まれ、これから苦難の生涯を生きようとしている赤ちゃん。老いさらばえて、杖にすがり、いざりながらうごめいている老人。コレラやハンセン病に患い、今にも死期が近い人。そして、命尽きて、家族に背負われて荼毘に付されようとしている葬送の行列を見て、釈迦は自分が一族と共に安全な城内で生活している事と引き比べ、余りにも人間世界の無情に気づいていくのです。

 仏教の「四苦」という課題、つまり「生老病死」という真実の発見は、そうした当時の生活の実態から気づいていったものなのです。

 多くの経典は、人間として生まれ出た事から始まる「苦」の解決について示唆を続けていくのですが、民衆が求めて止まない安定した、安心した生活の場はどこに、どの様にして存在し、どの様に生きていくことが安定の場を築いていけるのかを示唆したのが「阿弥陀経」なのです。

 阿弥陀経は、祇園精舎の庭で、シャリホツ(舎利弗)という大変賢い釈迦の一番弟子に向かって語りかけていますが、実は、そのお釈迦さまの言葉を一言でも聞き漏らすまいと、二人が対面している周りを何重にも取り囲んで、固唾をのんで聞き入っている大衆があったのです。

 もちろん、最も外側を取り囲んで、一番関心を持って聞いていたのは、とりもなおさず最下層民と言われていたアウトカーストの地獄のような生活を送っていた人々であったのです。結の最後に出てくる「夜叉」「天人」と比喩されている人々なのです。

 他の多くのお経と同じように、序分では、「如是我聞(にょぜがもん)」と始まっていますが、これは、釈迦の説法を最初は耳で聞き、それを口称で伝えてきました。

 しかし、釈迦没後、釈迦の説法が間違って伝わらないようにと、口称を伝えてきた人々が集まって、互いに「私はこのように聞いた」と確認をし合いました。これを「第一結集(けつじゅう)」と言われています。

 その後、たびたび結集は行われ、やがて確認された事が文字として記録され、伝えられることになったのです。ですから、お経は最初に「如是我聞」という言葉から始まっているのですが、これは、「確かに釈迦がこのように言ったのだ」という証明となるものなのです。

 そのような時代背景があったということを念頭に置いて、阿弥陀経に接してみて下さい。

 きっと、現代の世相とはそんなに違ったものではありません。

 確かに、当時と今では、科学も発達しましたし、文明も発達し、生活も便利になっていますが、その便利さが今度は私達を追いかけています。

 便利さを維持していくために、自分を振り返る時間もなくなり、世知辛く、そして多くの悲惨な事件も起こっているのが現実です。

 つまり、文明は他化自在天(たけじざいてん)=自分で作っておきながら自分を縛り付けていく魔物=そのものなのです。

 権力闘争、嘘の商売、汚職に収賄、児童虐待、家庭内暴力、未成年売買春、強盗・放火、不法投棄、ローン破産、リストラ・・・・。毎日のように報道され、もう慣れっこになりましたか?。

 仏説阿弥陀経を現代文に置き換えてみました。時代が違うからとバカにしないで、深く考えて読み進んで下さい。
  お釈迦さまの説かれた「いのちの教え」 (=仏説阿弥陀経=)

お釈迦さまの説かれた「いのちの教え」 (=仏説阿弥陀経=)


私達はお釈迦様から確かにこのように聞きました。
 ある時、舎衛国の中のキッコドクと言う人が、仏法興隆のためにと寄進された祇園精舎にお釈迦さまが居られました。仏法を聞き開いて行こうとしている1250人の人と一緒でした。これらの人は仏法を聞いて、仏法の示す生き方を実践し、そういう生き方が大切だと周りの人達に伝えている人達でした。
 弟子の中でも知恵一番と言われるシャリホツ、そして、モクレン、カショウ、センネン、クチラ、リハダ、シュリハンダ、ナンダ、アナンダ、ラゴラ、キョウボンハダイ、ビンズルハラダ、カルダイ、コウヒンナ、ハクラ、アヌルダというお釈迦のさまの大弟子と、これから仏法を聞いていこうと心に決めた人々や、モジュシリ法王子、アイッタ、ケンダカダイ、ジョウショウジンといった人達、そしてアウトカーストと呼ばれる無数の民衆と一緒に居られたのです。
 今から何が始まるのか、お釈迦さまを取り囲んだ無数の人達は固唾をのんで見守っていました。
 その時、突如として目の前に座っている一番弟子のシャリホツに向かってお釈迦さまが語りかけ始められました。
 ここから西の方角に、10万億という国々を越えていったところに一つの世界がある。その世界は極楽と名付けられている。その国には阿弥陀、つまり、永遠の尊い命と自ら名乗られる仏さまが居られ、今も現実に確かに居られて正しい教えを説いておられる。
 シャリホツよ、何故その国を極楽と言うかといえば、その国に住む人々には、様々な苦悩は存在せず、ただ諸々の楽を受け、苦悩から解放されている。だから、極楽というのだ。
 シャリホツよ、極楽の国には七重の柵が張り巡らしてあり、七重の直射日光をさえぎる覆いがあって外敵から守ってくれており、七重の並木が周りを囲い、熱風から身を守ってくれている。しかもそれらは宝石や宝樹で作られているのだ。、だからこの国が極楽と名付けられているのだ。
 シャリホツよ、極楽の国には、七つの宝石で出来た池がある。私達を潤してくれる清く澄んだ水が満々とたたえられているのだ。池の底には金砂が敷き詰められており、池の周りにの回廊の道は、金・銀・瑠璃・玻璃という宝石で作られている。池の上には宮殿があって、この宮殿も、金・銀・瑠璃・玻璃・シャコ・赤珠・碼碯で飾られている。池の中に開く蓮の花は、大きな車輪のようで、青い花からは青い光が、黄色の花からは黄色の光が、赤い花からは赤い光が、白い花からは白い光が照らし出され、おだやかで清く香しい世界を作り出している。
  シャリホツよ 、極楽の国はこのように私達を安心させるように作られており、私達を慈しみ守ってくれているのだ。
  シャリホツよ 、かの仏さまの国には、常に天から心地よい音が流れ出している。地面は黄金で作られており、一日中、天から仏の慈しみの花、曼荼羅の花が雨となって降ってくるのだ。その国に住む人々は、清い心を持って、それぞれが戒めを守り、それぞれが相手を敬う花をいっぱいに持って、おまけに10万億という数の仏さまに包み込まれて生きているのだ。食事の時はみんなが集まって食事をし、教えを守って生活している。シャリホツよ、極楽の国はこのように私達を慈しみ守ってくれる所なのだ。
  シャリホツよ 、かの国にはいろんな形の様々な色あでやかな鳥が棲んでいる。白鵲・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥という鳥たちだ。これらの鳥は、一日中、えもいわれぬきれいな声でさえずりを始める。その鳴き声は、煩悩の迷いから目覚めさせる五つの力と、さとりの知恵を助ける七つの力を授け、神聖な八種の修行の道を、仏さまに代わって教えてくれるのだ。この国に住む人々は、この鳴き声を聞くと、ことごとく全ての人が仏さまのことを心に想い、仏さまの教えを心に想い、ひとが集まり慈しみ合うことの大切さを心に想うのだ。
  シャリホツよ 、共命の鳥という二つの頭を持った鳥は、前世の罪によってこんな形で生まれ変わったのではないぞよ。なぜなら、かの極楽という国には地獄や餓鬼や畜生と言われる最も悲惨な悪をなす事による報いの苦しみなどはないのだ。
  シャリホツよ 、この仏さまの国には、人間の生み出す愚かな行いなどは存在しないのだ。このような様々な鳥は、これはみな阿弥陀仏が教えを広めるために阿弥陀仏自身が化身されたものなのだよ。
  シャリホツよ 、かの仏さまの国には、そよ風が諸々の宝物で作られた並木を通り抜け、天につるされた宝物で作られた覆いの網を吹き抜けるとき、かすかな心地よい音をかもし出すのだ。それはまるで百も千もの楽器が同時に音を合わせて鳴っているようなもので、この音を聞く者は、みな自然に仏を想い、教えを想い、共に生きる人々のことを想う心が生まれてくるのだ。
  シャリホツよ 、その国はこのように私達を慈しむように作られているのだよ。
  シャリホツよ 、あなたはどう思うかな。なぜ、かの国の仏さまを阿弥陀と言うのかを。
  シャリホツよ 、かの仏さまの放つ光は限りなく絶えることなく、全ての世界の隅々まで照らし、その光を遮るものは何一つ存在しないのだよ。だから阿弥陀と自ら名乗られているのだよ。
  シャリホツよ 、かの仏さまの寿命も、その国に住む人々の寿命も永遠無限の命を生きているのだ。だから阿弥陀と名乗られているのだよ。
  シャリホツよ 、阿弥陀は仏さまになられて以来、いまで10劫(1劫=一辺が4㎞の立方体の岩を毎年一度だけ羽衣の袖で撫でて、その岩が削り取られて消滅する時間の長さ)の長さを生きて居られる。
  シャリホツよ 、かの仏さまには数えきることの出来ないほどの弟子がおられ、この弟子はみな阿羅漢というさとりを開いた仏さまなのだよ。その数は、最早数えることは出来ない。もろもろの教えを聞こうとしている人の数もまた同様に数えることは不可能だ。
  シャリホツよ 、かの仏さまの国は、このように私達を慈しみ守り尽くそうと作られているのだ。
  シャリホツよ 、極楽の国に生まれる者は全ては、最早人間の迷いの世界に戻ることなく生まれて行き、それぞれに応じて生きていく所が用意されているのだ。その所はたくさん用意されている。その数は最早数えることが出来ないほどの多さなのだ。
  シャリホツよ 、ここに集まって私の話を聞いている者は、今まさに私の教えを実行に移すため、本当にかの国に生まれたいという心を起こすべきだよ。なぜなら、かの国で安心して生きている人々と共に同じ場所で生きていけるからなのだ。
  シャリホツよ 、少々の良いことをしたからといって、その報いとして極楽の国に生まれられるということではないぞ。
  シャリホツよ 、もし良く聞く耳と聞く心を持っている人があって、阿弥陀仏の説かれる教えを聞いて、そうだと納得し、阿弥陀仏の名前をしっかりと心に刻み込み、一日でも、二日でも、三日でも、四日でも、五日でも、六日でも、七日でも、心を乱さず極楽の世界に生まれ住みたいと念ずれば、その人は命の尽きるとき、阿弥陀仏は諸々の仏さまと共にその人の前に現れ来たり、その人のまさに命を終わろうとするときに、慌てふためき錯乱することなく、直ちに阿弥陀仏の居られる極楽の国に生まれ行くことが出来るのだ。
  シャリホツよ 、私は、これが真実のことであり、阿弥陀仏を念じることにより極楽の世界に生まれいくことができるという事を見つけたから、このように説いているのだ。もし聞く耳を持っているなら、まさにそうありたいと決心して、かの極楽の国に生まれ行くようにするべきである。
  シャリホツよ 、今、私は、阿弥陀仏が我等を救い守ろうとされている力と願いを誉め称えているが、東の方には、アシュクビ仏、シュミソウ仏、大シュミ仏、シュミコウ仏、ミョウオン仏などと呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの無数の仏が居られて、力いっぱい阿弥陀仏の教えを広げ、分け隔てなくいのちある世界を覆い尽くし、真実の言葉をもって生きとし生けるものの幸せを念じられている。あなた達は、まさにこの真実を受け入れ、全ての仏さまから、あなたの生きざまを守り、願われていることを自覚せよ。
  シャリホツよ 、南の方の世界では、ウニチガットウ仏、ミョウモンコウ仏、大エンケン仏、シュミトウ仏、ムリョウショウジン仏などと呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの無数の仏が居られて、力いっぱい阿弥陀仏の教えを広げ、分け隔てなくいのちある世界を覆い尽くし、真実の言葉をもって生きとし生けるものの幸せを念じられている。あなた達は、まさにこの真実を受け入れ、全ての仏さまから、あなたの生きざまを守り、願われていることを自覚せよ。
  シャリホツよ 、西の方の世界では、ウムリョウジュ仏、ムリョウソウ仏、ムリョウドウ仏、大コウ仏、大ミョウ仏、ホウソウ仏、ジョウコウ仏などと呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの無数の仏が居られて、力いっぱい阿弥陀仏の教えを広げ、分け隔てなくいのちある世界を覆い尽くし、真実の言葉をもって生きとし生けるものの幸せを念じられている。あなた達は、まさにこの真実を受け入れ、全ての仏さまから、あなたの生きざまを守り、願われていることを自覚せよ。
  シャリホツよ 、北の方の世界では、大エンケン仏、サイショウオン仏、ナンソウ仏、ニッショウ仏、モウミョウ仏などと呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの無数の仏が居られて、力いっぱい阿弥陀仏の教えを広げ、分け隔てなくいのちある世界を覆い尽くし、真実の言葉をもって生きとし生けるものの幸せを念じられている。あなた達は、まさにこの真実を受け入れ、全ての仏さまから、あなたの生きざまを守り、願われていることを自覚せよ。
  シャリホツよ 、下の方の世界では、ウシシ仏、ミョウモン仏、ミョウコウ仏、ダツマ仏、ホウドウ仏、ジホウ仏などと呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの無数の仏が居られて、力いっぱい阿弥陀仏の教えを広げ、分け隔てなくいのちある世界を覆い尽くし、真実の言葉をもって生きとし生けるものの幸せを念じられている。あなた達は、まさにこの真実を受け入れ、全ての仏さまから、あなたの生きざまを守り、願われていることを自覚せよ。
  シャリホツよ 、上の方の世界では、ウボンノン仏、シュクオウ仏、コウジョウ仏コウコウ仏、大エケン仏、ザッシキホウケゴンシン仏、シャラジュオウ仏、ホウケトク仏、ケンイッサイギ仏、ニョシュミセン仏などと呼ばれる、ガンジス河の砂の数ほどの無数の仏が居られて、力いっぱい阿弥陀仏の教えを広げ、分け隔てなくいのちある世界を覆い尽くし、真実の言葉をもって生きとし生けるものの幸せを念じられている。あなた達は、まさにこの真実を受け入れ、全ての仏さまから、あなたの生きざまを守り、願われていることを自覚せよ。
  シャリホツよ 、あなたが何を思っているか言ってみようか。なぜ全ての仏さまに守りきられていると言うのかと言いたいであろう。
  シャリホツよ 、もし仏さまの説かれる道理に従えば、己も他人もの命を慈しみ生きて行こうとする人となる。 これら諸々の仏さまの説かれる事を聞き、教えをたずさえていく者は、これらの道理に従って生きていく者となる。全て一切の仏さまから、皆共に慈しみ守られ、迷い煩う己から解き放たれ、この上ない「私」になりきれるのだよ。
  シャリホツよ 、あなた達全て、私の真実の言葉と諸々の仏さまの説かれる教えを素直に受け取りなさい。
  シャリホツよ 、もし、すでにそうありたいと願い、あるいは今、そうありたいと願い、又はこれからそうありたいと願い、阿弥陀仏の世界に存在する自分になりたいと決心するならば、その人は、己の迷い心から目覚め、揺るぎない自分を見いだし、この上ない「私」になりきって、かの国ですでに今生きており、いや、今生きようとしており、まさに生きようとしているのだよ。
  シャリホツよ 、自分をしっかりと見つめて生きていこうとする人は、真の心を持っているのであれば、まさにそうありたいと決心し、かの国に生まれるべきなのです。
  シャリホツよ 、私が今、諸々の仏さまが私達にかけられた大いなる願いに気づき、その力を称賛しているが、諸々の仏さまもまた、私の言っていることを称賛して下さっているのだ。そして、こんな言葉を言われているのだよ。『釈迦牟尼仏よ、はなはだ難しく、なかなか実行し難い事を、この人間の世界は、他人を排除し己の利になることばかりに争っている。迷い、煩い、行き場のない苦悩に満ちた世界の中で、自分を見失わない私になって、人々のために、とてもみんなが容易には信じられない教えを説いた。」と称賛されているよ。
  シャリホツよ 、本当に判って欲しいのだ。どうして生きていったらよいのかと、悩み、苦しみ、惑う事ばかりの毎日の中で、仏さまの真理に任せて、自分を確立させていくなどと言うことは、あなたにとっては難しく信じがたい事だろう。しかし、私はこの難しい「私のとまどい」を乗り越えてたので、悩み、苦しみ、煩っている人達に、この難しいと思うであろう教えを説いている。「自分が、自分が」と、自分にとらわれているあなたにとっては本当に難しいだろうな。
 お釈迦さまがこの教えを説き終わられると、お釈迦様がシャリホツに向かって説かれている様子を、固唾をのんで見守っていた仏さまの教えに生きていこうとしている人々、悩み、苦しみ、惑い、煩ってる人達、「私は悪い人間だ」と思い込んでいた人達は、お釈迦さまの説かれる事を聞いて、自分も一人の人間としてその命の大切さを認められていることに思いをはせ、とても嬉しくこの教えを受け止めました。そして、お釈迦さまに「ありがとう、ありがとう」と共感のお礼を述べて分かれて行きました。

これがお釈迦さまの説かれた「いのち」の教えです。(=仏説阿弥陀経=)

旧ホームページからの移転

トップへ戻る
タイトルとURLをコピーしました