忌中・喪中・ケガレ


 忌中とか喪中とかは、家族や親戚が亡くなると、意外としっかり守られている。

それが証拠には、年末になると、「喪中につき、年末年始のご挨拶を欠礼します」って葉書が届く。
欠礼どころか、きっちりご挨拶をいただくことになる。おかげで、
「○○さんちのお父さんがなくなられたのか」 と、それで知ることにもなる。
その効能は十分に認めたい。が、実はその中身だ。

きっちり喪に服しているかどうか?
田舎では、満中陰(49日の法事)を「忌中あけの法事」という場合が多い。
屁理屈を言うようだが、「忌中あけの法事」をしたのなら、忌中は済んだことになる。

 ところが、田舎というのはいろいろ行事があって、その中の大きな位置を占めているのがお宮さんの行事である。

 「私の娘の嫁ぎ先の○○さんが亡くなって、まだ一年経っていないので、お宮さんの手伝いはできません」
などと、言われる方がある。意外とこういう考え方は家庭内できっちり伝承される事が多い。体の良い日役逃れだけではないのだ。

が、

 実はこの裏には、とんでもない一致団結というか、共同体思考というか、なんとも言えない考え方が存在しているのだ。
 もし仮に、その方が手伝いに来ていて、その後に何か非日常的(大雨・火事・怪我人・などなど)なことが起こると、決まって噂されるのは、
 「喪中は神様ごとは遠慮せねばならんのに、常識はずれなことをするから....。」
と、その人の責任のように原因をなすりつけられることである。

 はたして、災いというものが、忌中や喪中の人が神社に行って手伝いをしたから起こるという因果関係が明確にあるのだろうか?


忌中については、古来いろいろと取りざたされてきた。
 我が家の犬が死にましたので、ケガレていますから、宮中の出仕を遠慮します。
なんて、サボタージュがあったそうだ。

 家の使用人が死にそうになったので、家の中で死なれると家中がケガレるので、瀕死の病人を家から出して道に放置した
 という平安時代の話もあるそうだ。

 それほどケガレというものが恐れられ、あるいはそのことを利用してきた。

 明治になっても、あちこちで長い忌中休暇(死穢50日)を取る者があって、役所や学校などで支障が出はじめた。そこで、明治政府は、太政官布告を出して、忌中のケガレの期間を見直すこととなった。

1874年(明治7年)6月、「葬式を出した人も、当日だけ神社参拝しなければそれでよい
という布告が出され、平安以来続いてきた死穢50日を廃止することになった。それから120年あまりも経ているが、習俗はしっかり根を下ろしているようだ。

死者を穢れたものとして扱っていくのはもう止めにしては如何なものか。私もやがてそうなるのだから。

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