28年前を思い出す 阪神淡路大地震

(財)消防科学総合センター太提供

頭から布団をかぶって

 28年前、1995年1月17日 5時46分、まだ寝ていたのだが、突如突き上げるような大きな揺れと左右の揺れが20秒以上も続いた。もうこれは家がつぶれるのではと、布団を頭からかぶって耐えるより方法はなかった。やがて揺れが収まり、テレビを付けたが、実況は始まっていない。

 こんな大きな揺れだから、本堂の阿弥陀さんはひっくり返っているのではないかと恐る恐る見に行ったらしっかり立っておられた。まずは一安心。

 やがてテレビが様子を伝え始めたが、情報が入っていないから、放送局の前の歩道からの中継だが、「どうなっているのかサッパリ様子がわかりません」と動転したかのようなアナウンサーのコメントだった。後ろに写っているビルは傾いていて、今にも倒れそうになっている。

 当時私は「丹南町立四季の森会館」に勤務していた。あの建物の正面は前面ガラスなので、ガラスは壊れているだろう? とか、丹南町の庁舎はきっと傾いているのではないかと出勤した。が、庁舎も無事、会館も無事だった。

被災地支援が始まった

 緊急会議が開かれて、芦屋市との関係があったので「行政応援」をするかも知れないということと、相当な被害が出ているから支援物資を届けるということになり、午後から緊急の自治会長会が開かれることになった。

 まずは食料。農村なので各家にはお米が確保されていた。これを精米して提供してもらうことに。衣類や生活必需品の提供も自治会を通して行なうことになった。次の日には集荷場所になった公民館に続々と集まって来た。

 食料が不足しているということで、早朝の学校給食施設を使って「おにぎり」を作ることになった。地域の婦人会の方たちが協力して大量のおにぎりを作り、トラックに乗せ,消防指令車の先導で神戸まで運んだ。丹波から神戸への道路は1~2本しか通行出来ない状態にあった。おにぎりは折角のことだからと、「山菜の炊き込みご飯」に自家製の「漬け物」なども添えられたのであった。が、これは3日後に考え直さねばならない教訓を得たのである。(これは後で述べる)
私はその作業の責任者になっていたのだった。早朝5時に給食センターへ行くには、道路はあちこち凍結していて大変であった。

門徒さんや知人を見舞う

 地震の3日目、神戸に出られている元檀家の方々を見舞いに行くことにした。マンションの壁にひび割れが生じている所も、町内の全域が特養マッチをひっくり返したように倒壊して、よくもまあ逃げられたものだと思うような方もおられた。何も出来ることはなかった。ただ、「身体が無事でよかったねぇ」というより外に言葉はなかった。

 六甲トンネルを越えて、神戸大学の横を通り、髙羽の交差点近くに来ると、道路には亀裂が入り、何よりも「異臭」がする。下水管が壊れて水道が止まっているのであった。髙羽の大きなマンションは外見はともかく、中は相当な被害であったのはその数日後に知った。

行政応援に職員が出て行く

 水道課では給水車と職員が泊まり込みの派遣で応援に出ていた。毎日交代要員が出て行く。水道復旧工事にも派遣されて行った。
 電車で神戸方面に行くにはJR尼崎を通るルート以外にはなかった。もう超満員。そんな中で、芦屋市への行政事務の応援が始まった。仕事は主に「被災証明の発行」の事務である。毎日4名の者が交代で応援に行くのだが。上げた手は下ろせない、下げた手は上げられないという鮨詰めの車内であった。女性職員が私の前に立って、痴漢に間違われないようにガードをしてくれた。公園などでの「炊き出し」にもたくさんの町民が神戸へ出かけてくれた。

 三木市には県の支援物資受け入れセンターが臨時に設けられ、寄せられて来る支援物資の「仕分け整理」にも職員が派遣された。「マスクをしていないと大変だ」と言っていた。

 道路が通れるようになり、物資が届くようになり、「おにぎり」や「炊き出し」の需要も少なくなってきたので食糧支援は終息させることになった。たくさん寄せられた「お米」は、親元や親戚を頼って避難して来た人たちに配布することにした。本来の職場から約1ヶ月間、「支援本部詰め」をしていたのも整理することになった。その間、個人的なルートによる空き家の紹介も4件ほどあった。

 篠山のホームセンターでは、ポリ容器がなくなり、青いビニールシートがなくなりと、特定物資の不足が波及していた。

 こういう経験が、1997年に起こった福井県三国町でのロシアタンカーの油流出事故への支援対応に大いに参考になった。「職員の派遣」という行動が容易にとれる態勢を経験していたからである。そして次には「東日本大震災」の時には、1年間の職員派遣を数年にわたって続けることとなったのであった。

食料支援の教訓

 食料支援をする時の心得えというものを実践の中で得ることになった。「良かれ」と思って美味しい「炊き込みご飯」の「おにぎり」や、「たくあん」や「白菜の漬け物」などを添えていたのだったが、1日目は歓迎されたが、2日目からは様子が変わったのである。

 その原因は、「老人や乳幼児や持病ある人」がいたのであった。「炊き込みご飯」や「塩が入っている白いにぎりめし」「たくあんの匂いが染みこんだにぎりめし」は二次加工が出来ないということがあったのだ。「離乳食」の代用品にしたり、「減塩食でないと困る人達」がおられるのであった。私たちが「良かれ」と思ったことは、実は「永続性」には欠けていたのだった。そして何よりも「炊き込みご飯」は喉が乾くのも難点であった。
 
 何も添加しない白いおにぎりを数個ずつパックに入れること。
 たくあんや漬け物などは種類毎に別のパックに入れること。
という実に単純なことが大事だったのだ。
 とんでもない大きな鍋ではなくて、家庭用の大きめの鍋を使うこと。
 食器や箸は「使い切り」のものを使うこと。
であった。水が不足しているから、「洗い物」が出来ない。衛生面を考慮することが被災地では大切なことなのであった。

災害から学び得たこと

 思い出すことは「良いこと」ばかりではない。28年前の人々の意識は今とは随分違っていたこともある。「着る物がないから、何でも着られる物であれば・・・」と、古着であったり、洗濯がされていない肌着なども出されて来た。

 避難所の路上では「1杯1000円のインスタントラーメン」が売られていたとか、何年も経ってから、「避難所でレイプが続出していた」という話も伝わって来た。

 僅かに30年弱前のことであるが、人々の「人権感覚」はまたその程度のレベルであったのも忘れてはならない。そして、まだその程度のレベルのままの「世界」が実在しているのも確かなことである。入管施設や刑務所等における対応の非人道的とも思われることも、その一つではないか。

支援にも工夫を

 「避難所」というイメージは学校の体育館に雑魚寝スタイルである。非常時にはプライバシーはないという暗黙の「概念」か存在しているのかも知れない。しかし昨今は段ボール製の「仕切りパネル」や段ボール製のベッドも開発されている。「人間の尊厳」というものは、どんな時にも出来得る限り配慮されていく世界であってほしい。「仮設住宅」についても随分配慮が深まって来たのは「経験」から得られたものであろう。

 私は、もしかしたらいろんな面から「大変」な事かも知れないとは思うが、奈良平安時代から困窮者に行われて来た「粥施行」のように、「豚汁」であったり「カレーライス」であったりという食事支援のメニューを考え直すことも大切ではないかと思っている。

 年齢や体調や嗜好も考えて、たとえば「バイキング方式」のようには出来ないか、夏なら「冷や奴」は提供出来ないか、「冷やしそうめん」があっても良いではないか? 何でも鍋に入れて煮るのは手軽ではあるが、「食事」を提供するということにも意識を向けることも大事。

 私は縁あって初期の「宇宙食」をいただいたことがある。かつての「宇宙食」はチューブに入った「まずい物」であった。しかし今は「にぎり寿司」もあるのだという。欲しい人には、夕食には「グラスワイン」が付いていても良いのではないか? 「パン屋」さんは「パン」を、「うどん屋」さんは「うどん」を、「豆腐屋」さんは「豆腐」をと、柔軟な思考の中で協力をして行けば、実行は可能ではないかと思うのだ。被災者は「画一」ではない。みんなそれぞれ事情が異なっているということだ。

 「災害」が多発する日本こそ、世界に誇れる「災害支援のありかた」を深めて行くべきではないかと。


 支援する側も、支援を受ける側も、どちらも人間である。
 28年が経過して、昨日のように思う出来事であった。


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