昭和15年(1940) 宗玄寺の文書綴りから
押し入れを整理していたら、古い雑誌と共に先代住職が綴っていた公文書が出て来た。眺めていたら、戦争が進んで行くにつれて、僧侶も「国家総動員体制」に組み込まれていく様子を垣間見る事が出来るのであった。
昭和15年、ヨーロッパではドイツが周辺国へ侵攻し第二次世界大戦が拡大の一途を進んでいた。日本は満洲から中国・東南アジアへ侵攻し、あらゆる面で国は戦争の準備に取り組んで行くのであった。軍部の独走は天皇の統帥権までも無視して行くこととなった。
そんな中で、昭和15年4月1日に「宗教団体法」が施行されて行くことになるが、それに先だって国は各市町村に管内の宗教団体を調査させている。
いよいよ日本に戦争が近づいて来た。国家はその準備に遺漏なきように準備をし始めるのであった。
寺院の「沿革」と住職の「履歴書」も添付されている。
昭和15年1月12日(金)、古市村役場から管内の各寺院に通知が出された。用件は「今回其筋より調査書提出の照会相成・・・・本月23日までに必着」という緊急の調査であった。宝物仏具・不動産・沿革・住職履歴まで添付しての調査であった。
「其の筋」と物騒な表現であるが、宗教団体を「認可制」にし、28団体が認可された。反戦を標榜する団体は除外されて行ったと考えられるのである。
「紀元2600年」を慶祝して、この集落の在郷軍人会は道ばたに時計台を寄付した。しかしこの時計も「金属回収令」によってあえなく回収された。コンクリートの土台が今も「負の遺産」として道ばたにひっそりと建っている。
昭和16年(1941) 国民学校になる
この年、小学校は「国民学校」と名前が変わった。近所の方にいただいた写真だが、何故か男女が「別」で、男の子も白いエプロンをしているのが不思議というか・・・。エプロンは何を意味するのか。
記念写真の後ろには、二宮金治郎と楠木正成の銅像が見えるが、金属回収令によって徴収されて行った。
何の話を聞かされているのかはわからないが、「それいけドンドン」の自慢話であったろう。マインドコントロールされている国民は、ワクワクとして聞き入ったのであろう。やがて来る耐乏生活と大空襲などはついぞ想像もしなかったであろうに。
昭和16年1月6日には住職の「履歴」が提出されている。 提出先が書かれていないからわからないが、前年は村役場だったので、今度は本山宛てだったのではないかと想像する。「真俗二諦」が大手を振って闊歩するのである。
この年の12月8日に日本は真珠湾を攻撃して「日米開戦」になり「太平洋戦争」が始まった。
昭和17年(1942) これが「金属回収実施要綱」だ
昭和17年、「第2203号の1」と記された古市村長の公文書が、村内の寺や教会に発せられた。文書の年月日は記されていないので不明である。これが世に言う『金属回収令』というものの実施要綱である。
文書の表題は『寺院及教会の金属類保有状況調の件』となっているが、この文書には『寺院教会等に対する金属類特別回収実施要綱』というものが併記されている。
即時回収対象の金属は、鉄・銅・黄銅・其の他の銅合金を主たる材料とした物であった。全部を有無を言わせず即時に回収する物は、梵鐘・簾付属頻・賽銭箱銅板・鉄柵・金属手洗・天水受・金属門扇・火鉢・鉄瓶・薬罐・茶卓
代用品を待って回収する物は、香炉・花立・蝋燭立・供物皿・仏飯器・花瓶・火舎
儀式の簡易化により回収する物は、半鐘・経鏧・伏鉦・灯籠・灯明用具・輪灯・常花・護摩壇用具・風鐸・金属塔・その他と記されている。
対象となる施設を「甲・乙」の二種類に分類し、甲は供出物件の総重量が1トン以上の施設で、昭和17年5月~9月末までに供出。乙は甲以下の重量を供出する施設で、昭和17年10月から18年2月までとなっている。
村が独自に定めたものではなく、「準則」という「雛形」が存在しているはずである。
唐突だが、嘉永6年(1853)、ペリーが率いる「黒船」がやって来て、江戸幕府は対応に右往左往。翌年も多くの黒船が来航した。
安政2年(1855)2月、『御領分釣鐘員数』という篠山藩内の寺院の釣鐘に関する資料が残っており、鋳造年月日・寸法・所有寺院について、全ての寺(別当寺も含め)を調査している。京都の悲田院を通して番人に調べさせているが、「極秘」の内に調査され、その数45ヶ寺に及んでいる。
この年は、オランダ国王が幕府に蒸気船(観光丸)を贈り、幕府は諸大名に洋式銃の訓練を命じた。長崎に海軍伝習所が設立され、薩摩藩が品川沖で初の国産蒸気船雲行丸の運転を試みて成功した。佐賀藩精錬所が鉄道模型を製作した。日露和親条約により下田港が開港されるなど、政治的軍事的に急展開が起こることとなった。
幕府は当時の番人制を利用して、金属の膨大な需要を確保するため、「下準備」を隠密裏に調したのではないかと推量するのである。
安永5年3月20日鍛冶(1708年)
願主 恵龍
治工統領(棟梁)
丹波国氷上郡柿柴村住
足立半右衛門尉藤原定家
鋳物師手傳
丹波国多紀郡篠山住
長澤三右衛門尉藤原久継
小田垣六左衛門尉家久
初撞
酒井三郎右衛門秀允母 釋受清
昭和17年11月22日(1942年)金属供出令により供出。
供出を前に、拓本が取られていた。
◀『仏具類特別回収用代替品注文調査票』というものが郵送されているのであった。昭和19年3月29日と記されているから、なんと1年半も立ってからのことであった。郵送先は兵庫県戦時物資活用協会であろう。
国家総動員へ向けて
門徒さんの家のお内仏の引き出しから出て来た「会員証」である。「護持委員」として報告はされていないが、別に頼んで会員になってもらっていたのかもしれない。
この年の「夏安居」では『歎異抄』をテーマに講座が持たれおり、その内容は『歎異抄聴記』という本になっているが、まさに「戦時体制」そのものと感じるところである。
昭和17年の報告書の中を見て行くと、「臨時祭典及儀式」の欄に「8月15日 報国法要」と記されている。今は、「終戦記念日」として「戦没者追悼会」がおこなわれているが、この時代はまだ「終戦」になっていないから、一般的な「盆法要」を「報国法要」としたのであろう。
昭和19年(1944) 国難突破 僧侶総動員態勢
本山監正部長から出ている『通牒』がある。どうやらこの本山の『通達』の回答から、召集について何かの判断材料としたのではないかとも思うのである。4月1日現在の状況を記入し、6月25日までに報告するように求められている。住職が欄外に下書きを書いている。
同時期であろうか、「財団法人大日本仏教会」からは『僧侶総動員態勢調査表』なるものが送付されて来て、その報告書を地域の仏教団(多紀郡仏教団)に回答している様子が見られるのである。
昭和19年7月、『僧侶登録申告済証明書』なるものが本山から送られて来る。先代住職の一人息子の「衆徒候補」にである。いやその前に「履歴書」が書かれていた。これを何処へ提出しようとしたのかはよくわからないが、おそらくは現況を本山に届けたのであろう。そしてそれを元に『僧侶登録申告済証明書』が発行されたのではないかと推量するのである。
いわゆる『赤紙』と言われる『召集令状』は残っていない。召集があったら「令状」を持参して入隊先の「連隊」へ赴き、「令状」も提出するので、本人や家族の手元には残らないのが通常なのである。 が、寺族に「召集」があったら組長に報告をしたようである。『寺族応召出征報告』という文書が残されている。
これによると昭和19年9月14日に入隊しており、入隊先は、斉藤部隊 足立隊 衣笠隊 と書かれているので、斉藤部隊の中の足立隊の中の衣笠隊に所属したのかなぁと思うのである。
昭和19年11月15日付けの文書では、住職は、「国難突破御教書披露法要」というものを10月18日に執行した旨を組長に報告している。組長はおそらく組内の各寺院の執行状況をとりまとめて教務所に報告したものと推定される。
『国難突破の御教書』とはいったいどんなことが書かれていたのかは、全く保存されていないのでわからない。
几帳面な先代住職のことだから、その時に廃棄したとは考えられず、終戦になってGHQにバレたら大変だと処分したのかも知れない。
「国難突破」と言えば、平成29年9月25日に、当時の安倍晋三総理大臣が記者会見をし、衆議院を解散することを表明した。「国難を国民の皆様と共に乗り越えていく・・・」という理屈だそうだ。この衆議院解散をマスコミは「国難突破解散」と名付けたのだった。その時に課題とした「少子高齢化」と「北朝鮮による脅威」は、5年後の今も何ら解決の糸口もない。
「衣料切符」とか「米穀通帳」などを知っている年代はほとんどいなくなった。「衣料切符」」がないと服を買う事ができなかった。いや、この切符を持っていても品物がない場合の方が多かった。「米穀通帳」は「マイナンバーカード」のようなもので、身分証明の代わりもした。この「通帳」をなくすと、米を買うことは出来ないから、将に命の次に大事なものであった。「配給」といっても「無償配給」ではない。
幼い頃、母親と一緒に並んでタバコやマッチの配給を体験した記憶がある。昭和23年頃まで「配給」というものがあったように記憶する。
隣寺の若い住職にも召集令状がやって来た。住職が欠けるわけなので、先代住職が代務住職を務めることになった。バタバタと代務住職の手続きをしている書類が残っているのであった。消印は「加古川」と読める。
昭和19年6月にニューギニアで戦死した。
昭和20年(1945) 戦争がおわった
昭和20年8月15日に戦争が終わった。国民には「やっと終わった」という思いであったろう。「終戦」と言うが、実際は「敗戦」であった。
仏教は、「国家総動員法」に基づいて否応なく戦争の一端を担わされた。いや、進んで担った人達もいたであろう。が、とにもかくにも戦争が終わった。焼け野原の国土を見て、「現況」を把握すべく動きが始まった。
「昭和22年2月末現在教師僧侶檀徒数報告」というものが本山から求められて来た。拙寺では教師(候補衆徒)が戦死し、僧侶は先代住職の爺さん一人になっていた。檀徒数も減り、人数も減っていた。戦死者が出ていたのである。 そしてその内の12戸は、本山や末寺に対しての懇志志納金を納めることが出来ない家庭になっていた。男女別各戸の数字が入った報告書が残されている。これはさすがに掲載は出来ない。
昭和22年8月であろう消印のハガキが送られて来て、寺院の実情を調査しようとしている。挨拶文のなんと白々しいことか。前住職がどんな回答を書いたのかは残っていないが、「主食に要する高は全収入の何割ですか」という問いの裏には、食うに困っている末寺がたくさん存在することを物語っている。が、何よりも、「本山護持」に対する状況把握が最優先のように思えてしまうのである。
昭和22年(1947) そして 前住職に知らされたのは
年老いた前住職の元へ1枚の紙切れと、コトコトと音のする小さな木箱が送られてきた。昭和22年8月のことであった。夜中に風が吹いて、木戸がカタカタの音を立てると、婆さんは戸口へ出て、『息子が帰って来た」と出て行ったという。
夕方の汽車が走り去ると、「この汽車で帰って来るのではないか」と石段に腰を掛けて待っていたという。
覚悟はしていたものの、無情な紙切れが送られて来たのであった。
ホコリにまみれ、虫が食った跡のある拙寺の「報告書綴」をめくっていくと、ほんの僅かな資料に過ぎないが、戦争がもたらすものを垣間見ることが出来た。
「兵戈無用」と言うものの、いざ戦争になってしまうと、「従軍僧侶」というようなことではなく、まさに敵を倒していく武器を手に、殺戮の最前線に出て行った僧侶がほとんどであったのだ。
戦争はある日突如として勃発するのではなくて、徐々に徐々に国民を誘導し、マインドコントロールして開戦に向かって行く。開戦の日には、よもや悲惨な敗戦を迎えるなどとは思いもせず、提灯行列に浮かれて、あちこちで「万歳」が叫ばれたのであった。
そして、そういうマインドコントロールから今も解き放たれずに、「戦時懐古」している人がいるのも確かである。
こんな声明書に出合うことになった。ウクライナのことも起こる前に出されたものだ。この通りである。今年の報恩講の法話の締めくくりに、講師と参加者が声を合わせてこれを読んだ。他に転載しても良い旨が記されているのでここに紹介することにする。
声明書 (2015.07.02)
戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。
戦争は、始めるよりも終えるほうが難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子どもにも禍をもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。
海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、
知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
自由と平和のための京大有志の会
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