赤穂義士にまつわる2題 後日談を追加

不破数右衛門の子孫に関係する方が現れた

 寺の墓地には「無縁墓」という物がある。数十年もの間、誰一人お参りされる方もなく、連絡先もわからなくなっているのだ。中には150年以上もお参りのないものもある。過去帳をみると「これにて絶家」と書かれている物もたくさんあるのだ。
 そんな中で、何故なのかはわからないが、年賀状が来るようになった方があった。関係性がどうなっているのかわからないので、失礼を承知の上でおたずねして見たら、「瓢箪から駒」のようなことが起こった。

Sさんご夫妻が尋ねて来られた。

先日わざわざ来示され、宗玄寺から離れて都会へ出られたことがわかる「過去帳」も拝見したのである。データ分類の中の「係累」がはっきり出来ることになったが、前述の「無縁墓」には直接的なことはなかった。しかし、不破数右衛門にまつわる大正5年と昭和29年の地方版の新聞を大事に受け継がれていたのであった。

こんな新聞記事わ拝見した

 それは、数右衛門が討ち入りの時に着用していた「じゅばん」のことが書かれている記事であった。明治の初めに寺から持ち出され行方不明になっていたので、寺ではレプリカを作って対応していたものであった。
 今から30年ほど前に、時の丹南町長が、「実物は播州のY家に所蔵されている」ということを私に話されたことがあった。もしかしたらこの新聞記事のことをご存知だったのかも知れないが、私は「よんどころのない事情があって持ち出され、、売却(借金の形)されたと推測出来るので、今更相手方に迷惑を掛けてはいかがなものか」と思っていたのであった。2つの新聞記事には、それとなくそのような内容が書かれており、「矢っ張り!」と思ったのであった。少々事実とは相違している所があるが、70年も前の事だ。時間を作って一度そのお家に伺ってみようとは思っている。

大正5年と昭和29年の新聞記事
宗玄寺伝承のレプリカ

後日談 よくよく検証してみと

 ところがこの記事をつぶさに見ていくと何点かの疑義があった。伝承であるから「想像」や「思い違い」や、はたまた「創作」もあることは、この種の話には往々にして見られることが多い。

 住職家に伝承している書き付けと、過去帳などの史実からこれを検証することにした。お断りしておくが、「史実とは違う」ということだけである。

襦袢の写真について

 書かれている詩の漢字が2箇所違う。「白居易放言」の中から取られているが、意味は特に変わらない。(以下、上野記事と写真を見ながら・・・)

 松樹千年終(遂)是朽
 槿花一日(朝)自為栄

 ()内の字が参考にするものによって違うのであった。宗玄寺に伝わるレプリカでは()の字になっている。

 左に 不破数右衛門正種 と書かれいるが、これは「落款」と言って、通常は、これを書いた人の名前が記される。数右衛門のために書いたのであれば 「為不破数右衛門正種」 と「為書」になって、もっと上の位置に書かれるのが「書のルール」である。

 宗玄寺に伝わることは、この書を書いたのは大高源吾であるというが、記事では原惣右衛門と書かれている。大高は俳諧を嗜んだ「知識人」であるから、書の「基本的ルール」を知っていると考えられる。しかし、原惣右衛門はどうだったかはわからない。一説によると、数右衛門は腹のことを良く思っていない関係であったようなので、腹に揮毫させたとは考えにくい。

 疑問に思ったので、書家に尋ねたら「書としての体裁」が無視されているので、書に対する知識のない人物が書いた物であろうと言う判断であった。

登場人物と遺品のまちがい

 宗玄寺の過去帳には「岡野治太夫」や「おさよ」(通称「熊」)が記載されている。「おさよ」は元禄14年4月18日に亡くなっている。「岡野治太夫」は正徳3年6月2日に、母は享保15年1月10日に篠山の岡野村の禅宗大膳寺で亡くなっている。

 数右衛門の子の「大五郎」は、親の罪を蒙らぬように出家させたため、祖母は幼い子どもに付き添って大膳寺に一緒に暮らしたのであった。その時、大五郎は6歳であったから、20年間、祖母と大善寺で暮らしたのであった。

 指摘したいのは「おさよ」は数右衛門の妹ではない。彼女は岡野治太夫の妹なのであって、数右衛門は「熊」の実弟ではない。

 数右衛門が切腹して、遺品が届けられたのは古市の宗玄寺の坊舎に暮らしていた実父母と2人の子どもたちへであった。父の治太夫へは切腹の時の「小刀」を、母へは着込んでいた「襦袢」を、息子の大五郎には「笄」(「こうがい」刀の鞘に挟んでおいて、髪をなでつけたり、頭を掻いたりする化粧道具の一種)を、娘のつるには「櫛」を送って来たのである。「クサリかたびら」と「ふくさ」と「はち巻」は事実ではない。元禄時代は刀を「ふくさ」で来るんで腹を切る作法だったのか?

 「笄」は大五郎が持って出たし、「櫛」は、つるが御影の寺へ出て行く時に持って行った。「小刀」と「襦袢」は永く宗玄寺に伝えられたが<明治の初めに窮した鍵屋が持ち出してそのままになってしまった。昭和29年の記事の末尾に書かれている「5円で売ってしまった」というのが真相であろう。

記者の不勉強

 最近の新聞記事は「裏を取る」といって、話の中身が合っているかどうかを記者が自身で見聞するものだか、この二人の記者は持ち込まれたネタを「鵜呑み」にしていたのか、処々に間違いがある。間違いだけを列挙すると、

・遺品の中には「クサリかたびら」「ふくさ」「はち巻」はなかった。
・丹波古市(氷上郡)はなく(多紀郡)である。
・遺品は酒井家に伝来したものではなく宗玄寺に伝来したものである。
・熊(おさよ)は岡野治太夫の「娘」ではなく「妹」である。数右衛門からは「叔母」になる。
・数右衛門は「熊」の「実弟」ではない。
・不来坂村は「ふきさかむら」ではなく「このさかむら」と読む。
・元禄15復讐の年に熊女に面会をしたとあるが、元禄14年に死去している者にどうやって面会したのか。
・襦袢の揮毫は書の基礎を知らない者が書いた。
・襦袢には「返り血」が着いていたと言われている。

 記事の全体がなんとく胡散臭い。この襦袢は「偽物をつかまされた」のではないかと思ってしまうのである。「達筆で記されている」とコメントされているが、レプリカの方が達筆に見えるのである。事実を陳列すると「身も蓋もない」ことになってしまった。
あちこちのホームページにも「数右衛門」のことが書かれているのを拝見するが、事実でないことが書かれていることがある。間違いは間違いなのでご指摘をしている。

献本を受ける 忠臣蔵の漫画2冊

こんな本が送られて来た。

 突然「献本」を受けることになった。黒金ヒロシ著『1702 忠臣蔵 雪の本』と『1702 忠臣蔵 月の本』の2冊である。献本先は「宗玄寺内古市義士会御中」となっている。
どうして宗玄寺に送られて来たのかはサッパリ見当が付かないが、「忠臣蔵ゆかり地」というネットによるのかも知れない。参考文献や参考史料が列挙してあったが、宗玄寺伝来の物はネットで公開しているので、もしかしたらとは思うが記載はなかった。
 漫画を読むのはもう50年以上も空いているので、目が追いついて行かないのであった。



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