丹波篠山市に「オロ峠」という峠がある。かつては古市村大字油井という所から今田村大字下小野原に通じる細い道の峠であった。昭和60年代半ばのころ、大改修がされて歩道付きの広い道になった。
この「オロ峠」という名前の由来が面白い。その昔、義経が鵯越へ向かった時に、平家の兵がオロオロと逃げ惑ったから「オロ峠」と言うようになったとか、反対に、平家の待ち伏せがあるのではないかと義経軍がオロオロと落ち着かなかったからとか、義経にまつわるもっともらしいことが語り継がれて来た。
『兵庫県小字名集 丹波版』(神文書院)の「多紀郡丹南町」の中の[古市村 油井]の中には「オロ峠」という表記で小字が紹介されている。
ところがつい最近、その「オロ峠」を通る用事があって、自動車でゆっくり峠道を登っていたら、道沿いに宅地造成をしている場所があった。
「はて、何やらん?」と興味が湧いて止まって見たら、宅地造成の許可が書かれている工事の標示があった。何気なく記載されている内容を見たら、なんとその場所の小字が「丹波篠山市油井字小郎峠○○番地」と記載されているのだった。
「小郎峠」という表記は初めて知ることになった。言い伝えや『小字名集』で知っていたことと違うではないか。
そこで改めてことの真偽を確かめるべく法務局へ行ったのであった。正式に登録してある土地の名称と地図の写しを公布してもらって確かめることにした。
正式には「小郎峠」が正解であった。地図にも、土地台帳の「全部事項証明」にも「小郎峠」と書かれていた。
「小郎峠」がいつの間にか「オロ峠」に変化したのであろう。その昔、このあたりを「小郎」という人物が所有していたのかも知れない。
丹波篠山市には「園田分」とか「波多野源左衛門分」などの大字や、「清兵衛屋敷」「政右衛門家内」「善六屋敷」「宇兵衛開地」「惣兵衛垣内」などの個人の名前の付いた小字もある。そう考えると「小郎峠」はさもありなん思うのである。「ころう」であったのか「おろう」であったのか、ふりがながないので今の所ところ慥なことは不明だが、「ころう」がやがて「おろう」になり「オロ」に訛って行ったのであろうと推測する。
油井という集落の中に「モータン池」という灌漑用の池がある。この「小郎峠」に取りかかる場所で、草野という集落との境界に接している。その「草野」には「モウ谷」という小字があると、これも『小字名集』に出ている。
古老の伝承では、かつては「桃谷」という字名であったのが、いつの間にか「モータン」と訛ってしまったのだということであった。
故酒井辰夫氏の『油井の覚書』の中に記載されていることを端折って内容を紹介する。
名前の由来を地元の古老に尋ねたが「わからない」「知らない」という。「藻や水草が繁茂しているので藻谷池」というとの説も出て来た。確かに今も藻や水草が繁茂している。しかし、『多紀郡郷土史考』(奥田楽々斎)の中に引用されている『多紀郡御領分池数帳』の中に「油井村 桃谷池 東西二十間 南北 六十間」という記載がある。これが「モー谷池」の記録である。この『多紀郡御領分池数帳』は寛延元年(1748)に形原松平が天封の際に青山家に引き継いだ文書であるが、嘉永4年(1851)の『多紀郡明細記』ではすでに「もう谷池」と記されている。
各地に残る「桃坂」「桃野」「桃山」「桃井」などの地名の起こりは、「桃」の樹名ではなく、「開」(もも)の意味から出たものと考えるのが本当のようである。
との意味が記載されている。
「桃谷」が「モー谷」になっていったが、この地は「新開」の地で、豊穣を願って「桃谷」と名付け、やがて灌漑用の池も村人達の力で構築していった。「桃太郎」も子孫繁栄を願った名付けだったのかも知れないが、女性器を連想させる素朴な「桃」に豊穣や反映を願った人々の思いが伝わって来るようだ。
ことのついでに、旧丹南町大山地区(現丹波篠山市大山地区)に「町ノ田」という所がある。このあたり一帯は古くから開発されていて、「大山荘園」の一部であったし、たくさんの伝承も残っている。三番叟や人形浄瑠璃の原形をとどめる神事の人形芝居も伝わっている。その大字の中に、「姫ノ腹切り田」という小字がある。何んとも物騒な小字名であるが、その昔に起こった出来事が小字名として伝わっている。『丹波の民話』の中に出て来るお話で、「姫塚の悲恋(ひれん)物語 町の田」とネットで検索すると「丹波篠山市」のホームページの中に物語りを読むことが出来る。