郷土史を調べる面白さ 小学校校舎が3代の役割をした。


明治17年に新築された古市小学校の建物がその後どのように利用されて行ったのか、最後のお勤めの写真が見つかった。

古市小学校の卒業記念写真(明治30年頃)

丹波篠山市古市119番地明治17年に新築された古市小学校。明治30年頃の卒業記念写真だ。
男子の帽子は記念写真の時だけ貸与されたらしい。2階の窓から覗いている子どもが写っているのがほほえましい。女子は全員和服姿である。正面椅子がけの3人は今で言う教育委員であろう。後列左の丸刈りのおじさんは初代校長の室谷弓太郎。前列中央の帽子と口髭のおじさんは2代目校長奥村一郎。


 郷土史とは、つまり自分が暮らしている地域の歴史のことである。自分が暮らしている所だから何でも知っているかというと、実はそうではない。興味の無い人にとっては古老であっても何もご存じない。そして、20年も時間が経つと人々の記憶から忘れ去られようと起こり始め、50年も経過すると、知っている人は非常に少なくなってしまい、当時の資料である記録やメモや写真なども整理されて現存する物は少なくなってしまうのだ。

 役所などの行政資料も、市町村合併が行われた場合は、過去の資料が何処に保管されているのか、わからなくなり、「保存年限」などの規定で廃棄されたりと、「公文書館」でも存在しない限り、残っている物は個人の蒐集物としてあるのがせいぜいで、その方が亡くなられると処分されてしまったり、蔵の中におかれて「日の目を見る」機会も閉ざされてしまうのである。

 かと言って、市立図書館へ資料を保管して公開出来るようにという方法は、「持ち込まれて大変だから」と拒絶されてしまう場合がほとんどである。著者が手書きで書いた貴重な資料をデジタル化して、「これを提供したら研究者は助かるから」と提供しようとすれば、「著作権処理が大変だから」と逃げられてしまう。遺族から許諾を得ればそれで済むのではないかと思うが、その手間を嫌がられてしまうのだ。それが図書館の大事な役割なのにと思うが。

 その点、「国会図書館」には豊富な著作物が収蔵され、デジタル化して閲覧に供されていたり、ダウンロード出来る資料もたくさん存在する。「文化とはフィードバックされないと宝の持ち腐れ」になるのだ。県立図書館や京都市立図書館はさすがにリファレンスサービスに目を見張るものがある。

 歴史に興味を持ち始めたのは役所勤めを終えてから。郷土史を研究されていた元小学校教師であったN氏も退職してからだという。歴史学者のU氏からは、「数枚の古文書の間に挟まれているメモの紙片が、ことの経緯を伝えている場合が多い」と教わったことがあった。

 そんな断片をパズルのように繋ぎ合わせていくと歴史の1頁が解明されていくのであった。しかし、その元となる資料を発見することが誠に地道な作業になってしまう。見当違いな所を訊ね回っても成果はない。先述のように、当事者であっても関心がなかった人の所には何も残されていないし、当事者が残していても、故人になられたあと、遺家族が処分してしまった例は山ほどある。

 私の地域の歴史の中に、それまで寺子屋の延長線上に学制発布に対応していた小学校が、明治17年に小学校が新築され、尋常科・高等科が作られた資料が残っている。が、それが全てではない。いわば断片的なものであるが、貴重なのは明治30年頃に校舎を背景に写された写真である。当時の様子を伝える貴重な1枚で、当地では外には残されていない。

 生徒が増えたため、明治33年に隣の集落に新しい小学校が建築されて移転すると、、その建物は一部改装されて村の集会所や黒住教会が使用していたが、昭和28年に城南村の保育所として解体移築され、3度目のお役を務めることとなった。

 ここの経過は断片的な文章が残っているが、城南村の保育所であったという写真が残っていないかと、八方に手を尽くして探したら、その建物での最後の終了式の記念写真が出て来た。今も健在でおられる当時の保育士さんが持っていたのである。城南村は合併して「丹南町」となり、保育所は「丹南町立第4保育所」となっていた。

 1枚の写真、「たかが写真 されど写真」なのだ。今のようにカメラが普及していない時代であるから、写真屋さんが撮した物だが、これは貴重な1枚となった。

 資料を提供していただき、コピーを取らせてもらうのは実はなかなか大変なことなのである。というのは、かつてカメラが貴重な時代、ましてコピー機などはなかった時に、研究者は筆記して原文を書写したり、あるいは大学などは、借り受けて持ち帰ったりしたものだが、貸した物が返って来ないままになったり、家人が目を離したすきに、ページを破り取ったりと、迷惑をまき散らし、顰蹙をかった研究者がいた。それに懲りて、貴重な資料であればあるほど見せてもらえないということになっていったのである。余程の信用がないと持ち帰ってコピーするなどとは不可能に近いのだ。「歴史研究家を見れば泥棒と思え」という諺が生まれているのかも知れない。

 歴史家でなくても「借りた物を返さない」人がちょくちょくいるものだ。「本を貸したら、やったと思うこっちゃ」と言った方がおられた。いや本当にそうてあることがある。

昭和10年代の様子。一部改装されているらしい。破風が特徴を残している。村の集会所ではあったが、黒住教会に貸与されていた。

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昭和25年頃の様子。村の青年団が運動会で優勝した。相撲の部のようだ。江戸時代の村相撲の名残がまだ続いていた。畳敷きの部屋で、柔道の真似ごとをして遊ばせてもらった。

昭和28年頃の敬老会の記念写真。黒住教会時代で、村の集会所としても使われていた。この後、新しい公民館が建築されることになり、この建物は解体移転して城南村保育所として使用されることになった。

昭和40年と思われる終了式の記念写真。この年、保育所は新しく建築されました。町村合併により「丹南町」になっていた。いずれも特徴のある玄関の構造は残されたままに受け継がれていた。写っている子どもたちは初老の域になっている。

昭和41年度保育終了式の記念写真(昭和42年3月撮影)。このあと、この建物は解体撤去され、保育所はしばらく他の場所に仮住まいして、新しい園舎が建設されました。元の小学校の中央部分のみが移築され利用されていた様子がわかります。後列左から2人目の保育士さんだった方から提供していただきました。(上の写真も同様)


 点が線に繋がった。小学校として建てられた建物が80年の歴史の中で役割を勤め、たくさんの人々の出会いの場になったのであった。そこには人々の悲喜交々の人生の一コマがあった。保育所の写真を持っておられた元保育士さんは、私の突然の訪問に、当時を知る知人にあちこち電話をされ、それこそ思い出話に花が咲いたという。写っている子どもたちにも思い出があり、この子はいたずらっ子であった、この子は○○さんのお嫁さんになった、この子は教師になった、などと、思い出話を私に聞かせてくれました。思い出は走馬燈のように続くのでした。

 歴史は「記録」だけではなく、「生きた証人」としてフィードバックして行くことが大事。資料を集めて一人でご満悦になるのではなくて、広く公開することが大事なのだ。


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