人間のすること?

ウクライナへの軍事侵攻のことが世界をかけめぐっている。先日の新聞の見出しに、『人間のすることか』と書かれてあった。
一般人を残虐に殺害しているという事態は、まさに「人間のすることか」と言いたくなる。「戦争は人権侵害の最たるもの」と言われるがその通りである。
「人間のすること」ということをもう一度よく考えてみたいと思う。同じ種族を相手に殺し合うという行為をよく観察してみると、蟻の世界でも、蜂の世界でも、同じ種の巣を集団で襲う習性がある。しかもそれらの集団には役割があって、子孫を増やすもの、食料を集めるもの、戦闘をするものなど、社会的分業?が成立しているのだ。
人間という生物も、社会というものが形成され、それぞれの役割というものが成立しているのも事実だ。
そう考えると、種としての「残虐性」は、その種がどのような「社会構造」を形成しているかによって解明できるのではないかと考える。「社会構造」が発達しているほどこの傾向が強いのではないかと。
至極当然のルールが守れない
街を歩くと「信号を守りましょう」と看板がある。交通安全運動では、「横断歩道は歩行者優先です」と言う。学校へ行くと、「廊下は走らないようにしましょう」とか、「ゴミはゴミ箱へ入れましょう」と注意書きが書いてある。
これらは至極当然のことながら、何故わざわざ書いてあるのか?
つまり、至極当然のルールが守られていないからなのだ。
仏教は何を説いているのか?
仏教の教えの中にはたくさんの譬喩が用いられ、「自利利他」とか「捨身の話」とか、「命を大事にとか、「衆生と共に」とか、ありとあらゆることが、「自分勝手ではだめですよ」ということが説かれている。
「人間というものは 自分にとって都合の良いことは大好きで 都合の悪い事は大嫌いと言いながら生きて行く生き物である」といわれる。経典を読んでいくと、「性善説」ではなくて「性悪説」に立って説かれていると思うのである。
宗教を信じるということは、「自身の生き方」の道を実践するということである。「戦争が終わりますようにと祈るだけのことはやめて欲しい」とウクライナの人の言葉が添えてあった。つまり、「祈るだけ」では戦争は終わらないのだと。「戦争が終わる」ための行動を起こして行くことが大切なのだと。
知ったら行動に起こす勇気を
27年前に起こった「阪神淡路大地震」の時に、「念仏を称えているだけでは瓦礫は取り除かれない。瓦礫を取り除く行動を起こすことが大事なのだ」と、スコップを携えて神戸へ走って行った若い坊さんがいた。
戦争が起こってからでは遅い。平和?な時に「戦争を起こさない」ための行動を継続して行くことが大事なのだ。そして、今は、戦火の犠牲になっている人達へ救援の手をさしのべる「行動」を起こすことが大事なのだ。ウクライナ侵攻が始まってもう40日以上が経った。阪神も東北も世界中から日本は助けてもらった。「恩送り」をしようではないか。それが「衆生とともに」ではないか?
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