
昨日(11/23)は宗玄寺の報恩講だった。先週にお掃除とお磨きを済ませ、朝から最後の準備に役員が集まった。前線通過後は冷えてくるとの予報だったが、予報どおりに寒い。山の木々が紅葉を深めてきた。紅葉も真っ赤になってきた。講師は大阪教区の高橋法信さん。久しぶりの来篠だ。
お寺の行事に参加される方が固定化している。家庭の中で、いわゆる世帯主が一家を代表して参加する。そしてその方が亡くなると、奥さんであったり息子さんが参加されるというケースが9割以上なのだ。宗教とは何かという事が理解されていない日本独特の有りようだ。あちこちの報恩講に法話に行った事があるが、何処も同じ風景であったと記憶している。
「世代交代」があるたびに、またも「宗教とは何ぞや」から始まり、準備や法要はどのようにやって行くのかの「リセット」がかかってしまう。「賽の河原の石積み」を繰り返すのだ。
「親父が生きている間は、寺のことなど全く無関係だったから、何も全く知らなかった。我が家のお内仏にも、全く関心がなかった」と言われた役員さんがあった。
「俺が死んだら極楽へ行けるよう、葬式で拝んでくれ」と言った方があった。そんなことが出来るはずがない。が、大方の方はこういう認識なのだと思う。しかし、経典にはそんなことは書かれていない。「念仏往生」は書かれてはいるが、坊主が身代わりに拝んだとて実現性はゼロなのだ。『観無量寿経』にはこのように説かれている。
「下品下生」というは、あるいは衆生ありて、不善業たる五逆・十悪を作る。もろもろの不善を具せるかくのごときの愚人、悪業をもってのゆえに悪道に堕すべし。多劫を経歴して、苦を受くること窮りなからん。かくのごときの愚人、命終の時に臨みて、善知識の、種種に安慰して、ために妙法を説き、教えて念仏せしむるに遇わん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友告げて言わく、「汝もし念ずるに能ずは、無量寿仏と称すべし」と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆえに、念念の中において八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。猶し日輪のごとくしてその人の前に住す。一念の頃のごとくに、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中において十二大劫を満てて、蓮華方に開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相・除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜す。時に応じてすなわち菩提の心を発す。これを「下品下生の者」と名づく。これを「下輩生想」と名づく、「第十六の観」と名づく。
とあるのです。つまりは、最後の最後に至っても、本人が阿弥陀仏を念ずるか、もしくは名号を称えることが往生の必須条件ということになるのでしょう。坊主が、「阿弥陀如来を信ぜよ」と言い、「念仏を申せ」とっても、本人が耳を傾けなければ。