年末になると、早々と「年賀欠礼」の挨拶状が届く。こんな物が届くようになったのは、つい30年ほどの歴史しかない。いったい何を根拠に出されているのか、出している本人も知っていて出しているのか、はなはだ疑問である。
本人は本当に喪に服してもいないし、忌を慎んでもいないのに、さも、喪に服し、忌に服しているかのように挨拶状を送ってくる。
「喪中につき、年末年始のご挨拶を失礼します」などと書かれていても、その期間に家族のお祝い事があったりするのだから、「喪に服す」という事の意味が全く理解されていない。
喪中にお祝い事があるなどと言うことは、相反する事なのだ。祝い事の日だけ、喪が中断して、「ちょっとタイム!」なんてご都合のよい事ではないのだ。
挨拶状を送るように勧めているのは、どうやら葬儀屋さんというか、それにまつわるギフト屋さんの商売に引っかかっているように思えてならない、
しかも、勧めている方が、服忌の詳しい事を知らずに、とにかく年末になればハガキを出すように勧めいるフシがある。
お節介だが、服忌について少々ウンチクを傾けるので、今後の参考にされては如何なものか。
以下に明治7年にやりとりされた服忌について紹介しておこう。
○第百八号 太政官(十月十七日 輪郭付)
服忌の儀追て被仰出の品も可有之候得共差向京家の制武家の制両様に相成居候ては法律上不都合有之に付自今京家の制被廃候條此旨布告候事
これは、服忌の制度が二通りあって、武家式と公家式(京都式)があり、武家式の方が服も忌も短かった。公家というものは迷信にとらわれており、服も忌も長くとっていたのである。そんなに長く喪に服され、忌中などといって休まれては明治の文明開化の事業に大きな支障が出始めたのである。明治政府は「服忌制」を武家方式とすることに決め、これを全国に一斉に布告したのである。
次に京都府が同じ年(明治7年)、武家制の服忌が採用されたのに不服があったのかどうかは判らないが、政府に対して、「これでよいのか?」と念をただしている。つまり、元禄時代(1686~04)に改正され、元文年間(1736~41)に増補された別冊の通りでよいのかという念押しである。エラク古い物を持ちだしたものである。
○太政官
第一 七年十一月十八日(京都府伺)
服忌令の儀は追て被仰出の品も可有之云々本年第百八號を以て御布告相成右武家制服忌の儀は元禄年中改正元文年中増補の別冊相用ひ可然哉為念伺
(別冊)
服忌令
一、父母 忌五十日 服十三月閏月をかぞへす(閏月については後に削除)
一、養父母 忌三十日 服百五十日
遺跡相続或は分地配当の養子は実父母の如し同姓にても異姓にても養方の親類実の如く相互に服忌可受之実方の親類は父母は定式の服忌可受之祖父母伯叔父姑は半減の服忌可受之兄弟姉妹は相互に半減の服忌可受之此外の親類は服忌無之遺跡相続せす或は分地配当せさる養子は同姓にても異姓にても養父母は定式の通忌服可受之養方の兄弟姉妹は相互に半減の服忌可受之此外の親類服忌無之実方の親類は定式の通相互に服忌可受之(分地配当ては後に削除)
一、嫡母 忌十日 服三十日
対面無之候はヽ不可受服忌通路致し候はヽ対面無之共服忌可受之父死去の後他へ嫁し或は父離別するに於ては妾の子不可受服忌 但し嫡母の親類は服忌無之(妾については後に削除)
一、継父母 忌十日 服三十日
初めより同居せされは無服忌
父死去の後継母他へ嫁し或は父離別するに於ては不可受服忌 但し継父母の親類には服忌無之
一、離別之母 忌五十日 服十三月閏月をかぞへす
一、夫 忌三十日 服十三月閏月をかぞへす
一、妻 忌二十日 服九十日
一、嫡子 忌二十日 服九十日
家督と定めさる時は末子の服忌可受之女子は最初に生れても末子に准す
一、末子 十日 服三十日
養子に遣し候ても服忌差別なし家督と定むる時は嫡子の服忌可受之
一、養子 忌十日 服三十日
家督と定めさる時は嫡子の服忌可受之
一、夫之父母 忌三十日 服百五十日
一、祖父母 忌三十日 服百五十日
母方 忌二十日 服九十日
離別せられ候祖母も服忌無別儀
一、曾祖父母 忌二十日 服九十日
母方には服忌無之 但し遠慮一日
一、高祖父母 忌十日 服三十日
母方には服忌無之 但し遠慮一日
一、伯叔父姑 忌二十日 服九十日
母方 忌十日 服三十日
父母種替りの兄弟姉妹は半減の服忌可受之
一、兄弟姉妹 忌二十日 服90日
別腹たりといふとも服忌に無差別
一、異父兄弟姉妹 忌十日 服三十日
一、嫡孫 忌十日 服三十日
嫡孫承祖たる時は嫡子の服忌可受之祖父母死去の時も嫡孫の方へも五十日十三月の服忌可受之
此外の親類服忌差別なし曾孫玄孫たりといふとも同例也
一、末孫 忌三日 服七日
女子は最初に生れても末孫に准す娘方の孫服忌同前
一、曾孫玄孫 忌三日 服七日
娘方には曾孫玄孫共に服忌無之
一、従父兄弟姉妹 忌三日 服七日
父の姉妹の子並母方も服忌同前
一、甥姪 忌三日 服七日
姉妹の子も服忌同前
異父兄弟姉妹の子は半減の服忌可受之
一、七歳未満の小児は無服忌
父母は三日遠慮其外の親類は同姓にても一日遠慮日数過承候はヽ不及遠慮 但し八歳より定式の服忌可受之
附七歳未満の小児の方へも服忌無之父母死去の時は五十日遠慮其外の親類は一日遠慮父母は年月を経て承候共聞付る日より五十日遠慮すへし
一、聞忌之事
遠国において死去年月を経て告来るといふとも父母は聞付る日より忌五十日服十三月 外の親類は聞付る日より服忌残る日数可受之忌の日数過て告来らは一日遠慮服明候とも同前
一、重る服忌之事
父の服忌いまだ不明内母の服忌有之は母の死去の日より五十日十三月の服忌可受之おもき服忌の内かろき服忌ありて日数終らは追て不及受服忌日数あまらは残る服忌の日数可受之
穢之事(穢については後に削除)
一、産穢 夫七日 婦三十五日
遠国より告来七日過キ候はヽ穢無之七日の内承り候はヽ残る日数の穢たる可し血荒流産同断尤も妾の産穢の時も同例
一、血荒 夫七日 婦十五日
一、流産 夫五日 婦十日
死體有之は可為流産形體無之は可為血荒
一、死穢 一日
家の内にて人死候時一間に居合候はヽ死穢可受之敷居ワを隔候へは穢無之一間に居合候とも不存候へは穢無之二階にても揚り口敷居の外に有之候へは穢無候家なき所に死人有之時は其骸有之地計り穢候家主死去候ても死穢の儀差別無之死後其所へ参り候者は骸有之候共踏合の穢也
一、踏合 行水次第
一、改葬 遠慮一日
子は不残遠慮 但不承候はヽ
追て不及遠慮候忌掛り候親類改葬の場へ出候ものは遠慮す可し忌不掛親類は其場へ出候とも不及遠慮候改葬の主になり候はヽ他人にても一日遠慮す可し
附掘起し候日より葬候迄日数有之候はヽ不残掘おこし候日と葬候日と二日の遠慮なり他人にても改葬の主になり候者は同断 但し掘起し候翌日より葬り候前日まては幾日にても不及遠慮候
改葬の儀遠所にて申付け日限存候はヽ其日遠慮すへし日限不存相済候後承候はヽ追て不及遠慮候
元禄六年十二月二十一日
追加
一、養父死去以後養母同居せすといふとも他へ不嫁候へは服忌可受之他へ嫁するに於ては服忌無之
一、養父の妻養はれさる以前に死去候はヽ嫡母に准し其親類服忌無之
一、父の後妻と通路いたし候はヽ対面無之とも継母の服忌可受之
一、義絶の嫡子の服忌は末子に可准之此外の親類義絶といふとも服忌別儀なし
一、女子婚儀以前より養はれ或は入聟を取家督相続の時は養方の親類実の如く相互に服忌可受之
一、婚儀いまた相調はさる内にても祝儀取かはし候へは夫婦相互に定式の忌の日数可遠慮 但し服無之
一、父の妾服忌無之
一、妾は服忌無之 但し子出生においては三日遠慮血荒流産有之計りにては妾死去の時遠慮無之
一、遺跡相続せす或は分地配当せさる養子養方の兄弟姉妹他家へ養はるヽ者には相互に服忌無之
一、同姓にても異姓にても一人へ両様の続有之は重き方の服忌可受之
一、名字を授候計にては相互に服忌無之本姓の方の親類定式の通服忌可受之
一、離別の女はたとひ実施有之他へ不嫁候とも夫婦の縁きれ候故相互に服忌無之
一、子無之死去候者名跡相続のため新規に家督相続の時は養父の如く服忌可受之死去候者の妻は養母に可准之死去候者七歳未満に候はヽ服忌無之五十日可遠慮死去候者の親類は相互に定式の服忌可准之実方の親類は父母は定式の服忌可受之祖父母伯叔父姑は半減の服忌可受之兄弟姉妹は相互に半減の服忌可受之此外の親類服忌無之
一、養子願書差出之老中請取之其以後死去候はヽ家督不定内にても養父母計り五十日十三月の服忌可受之
一、半減の日数三十日は十五日なり餘は准之
但し七日は四日也三日は二日也
一、一日と有之は当夜の九ツ時より夜の九ツ時まて也九ツ前に候へはたとひ四ツ半過にても一日の積也
右十六箇條元禄六年追加の内也
今般聊省略而書載之
一、妾腹の子其父嫡母を以て養母に定むる時は忌五十日服十三月可受之母方の親類の服忌養実の差別家督相続の養子の如くたる可し嫡母の子継母の服忌に於ても父の極め次第右に同し 但し継母方の親類には服忌無之
一、家督相続の養子たる者実方の養母嫡母継母服忌無之分地配当せさる養子は右の服忌可受之
一、養方の伯叔父姑兄弟姉妹人に養はるヽ者は半減の服忌可受之実方の伯叔父姑兄弟姉妹他家より養はるヽ者も服忌無差別
一、其身養子に参り実方の伯叔父私有止め兄弟姉妹の内人に養はるヽといふとも其儘半減の服忌たる可し
一、父養子にて其子人の養子に参り候時は父の父母兄弟姉妹養実ともに半減の服忌可受之或は父も養子其身も養子の知己は養父の実方服忌無之若し実方に付て半減の服忌可受続有之は服忌可受之
一、半減の服忌に祖父母伯叔父姑兄弟姉妹と有之は母方の祖父母伯叔父姑異父紀要題しまいも同例
一、嫡子を人の養子に遣はす時は服忌末子の如くたる可し
右七箇條更増補之
元文元年九月十五日
(指令)一月七日
伺之通
但産穢及ひ混穢不及憚儀は明治五年第五十六號布告之通可相心得事
京都府は別冊で「武家制」を書き上げ、「これでよいか?」としたのに対して、太政官は翌年の1月7付で、「京都府の伺っている通りである」という「指令」を出している。
原文はカタカナであるが、便宜上平仮名になおした。句読点がないので読み辛いであろうから、その一部分の概略を表示すると、
父母の死は | 忌中50日間 喪13ヶ月間 | 子が服する |
養父母の死は | 忌中30日間 喪150日間 | 子が服する |
継母・継父の死は | 忌中10日間 喪30日間 | 子が服する |
夫の死は | 忌中30日間 喪13ヶ月間 | 妻が服する |
妻の死は | 忌中20日間 喪90日間 | 夫が服する |
嫡子(家督相続する子)の死は | 忌中20日間 喪90日間 | 親が服する |
夫の父母の死は | 忌中30日間 喪150日間 | 妻が服する |
祖父母の死は | 忌中30日間 喪150日間 | 孫が服する |
母方の祖父母の死は | 忌中20日間 喪90日間 | 孫が服する |
死のケガれ | 長くても1日間? | |
(以下略) |
という事である。この服忌制が未だに公的に通用しているかどうかは確かめていない。服忌制を廃止するという所まで読み進めていないからであるが、『法令全書』では、分地配当と妾に関するところと穢に関するところは後に削除となっている。
しかし、仮にもこんな迷信じみた服忌制度であっても、これをお読みになればほぼ見当がつくであろう。
「娘の嫁ぎ先のおじさんが亡くなったので・・・」などと、共同作業(農村でのお祭りの手伝いなど)をさボる口実を言う方があるが、どこを探しても、そんな関係の服忌は見あたらない。
ウソでもよいからその根拠も確かめず、世間がしているから・・・と、安易に喪中欠礼のはガキを出したり、さボりの口実に使うと、恥の上塗りになるからご用心召されては如何なものか。
服忌制度というものは、家制度、家督相続、男性中心社会での儀礼であって、男女協働参画社会になっている現在では、こんなものを持ち出す事自体が時代遅れの人権感覚低調性であるが、それでもしつこく「年賀欠礼」が送られてくるので、あえてその根拠を示したに過ぎない。
この服忌令をよく読むと、夫の親が亡くなったら、妻は忌や喪に服するが、妻の父母が亡くなっても、夫は忌や喪に服さなくてもよいことになっている。
女性の方はこれをどのように理解しますか?それでも、こんな迷信や占いやを信じますか?女性の人間性を疎外されていても、なお信じるのですか?
こんな、しようもない事にこだわらず、もっと大事なことを忘れていませんか?
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