真宗の法要の後で、みんなが手を合わせて、にょうらい だいひの♪♪♪
いったい、この恩徳讃(おんどくさん)って、どんな意味が込められているのでしょうねぇ???
決して、法要の終わりの歌ではないのだけれど・・・・。
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし |
親鸞聖人作の「正像末浄土和讃」の第58首目のものです。
如来の大悲とは、仏説大無量寿経に説かれている四十八願そのものなのです。
つまり、人としてこの世に生を受けた以上、互いに命を尊重し合い、生きていく上での苦しみから解脱できるようにとの救いの願いなのです。
「生ある者は必ず滅する」という真理に逆らって、「死んでも命がありますように」と藻掻き苦しんで、「我こそは・・・」、あるいは「人よりも・・・・」と、贅沢を極めたいがために、大きな犠牲を払ってしまったり・・・・。
「それは、人の生きる道ではなくて、まさに地獄そのものなのですよ。そんな生き様をしているあなたこそ、まさに畜生そのものなのですよ」と諭されたのが釈迦の説法だったのです。
如来とは、如が私の方へ来るから如来と言います。
じゃ、如って?
仏教で如というのは、真理、あるいは、絶対の真実という意味なのです。
真理とか絶対の真実というのは、私の都合で変わるものではありません。自分がどのように思おうとも、どのように変えたいと思おうと、そうは問屋が卸さない。私の都合の届かない流れなのです。
しかし、その真理は、私を生かそう生かそうとはたらいています。
自殺を試みた方の述懐に、
「私は、死のうと手首を切った。しかし、私の身体は、生きたい、生きたいと回復させてきた。」
「私は、死のうと思ったとき、この手、この足に『私は死んでもいいですか』って聞かなかった。」
「命というものが、私を生かしていることに、初めて気づきました。」
と、言われていました。
如は、まさに「死んではいけない」とはたらきかけて来たのです。
共生などと言う言葉が大流行ですが、まさに如の中で私が生かされているということを仏教は説いてきたのです。
少し科学的に言うと、如は大宇宙とか大自然とも言い換えることができるかも知れませんが・・・。
そんな命に対して尊いはたらきかけをしている如の願いに対して、「あー、私は生かされているのだ」と、心底実感出来た瞬間に、この身を粉にしても感謝していきたいという思いが沸々と湧いて来るのです。
師主知識とは、私にそのことを気づかせ伝えてくれた方をいうのです。
親鸞聖人は法然上人のことを。
私はK先生のことを。
そして、あなたは、近所の、もしかしたら年下のお友達かも知れませんねぇ。
師主知識とは、私にヒントを与え、導いてくれた人。
地獄の中に居ることも知らず、人のように生きて居るように思っていたものの、実は畜生の身を生きていた。
あなたに出会わなかったら、そのことに気づかなかった。
あなたに出会えて、私は私に気づいた。
あなたに出会えて良かった~。
と気づいた瞬間、自分の骨を粉々に砕いても悔いはないと思うほどの、感激の思いが沸々と湧いて出るのです。
親鸞聖人は、自分の生き様をつくづくと思い深めていくと、
「何と私という人間は、欲が深く、浅ましいかぎりである」と、自身を見透かされたのです。
そして、そんな私であるからこそ、地獄行きは間違いないと言われたのです。
地獄は一定住処(いちじょうすみか)ぞかしと。
そんな私であっても、南無阿弥陀仏を唱えれば、必ず救うと誓われた仏の願いによって助けとられるということに、親鸞聖人は和讃を作って感激されたのです。
それが恩徳讃なのです。
恩徳讃とは、如来と導きをしていただいた方の恩徳を讃える詞なのです。
南無阿弥陀仏とは、「はい、わかりました。私は命の尊さというものに、素直に従って生きていきます」という言葉なのです。念仏とは、その言葉を自分の口に出して、自分で聞いて確かめる事なのです。他人や死者に聞かせる言葉ではないのです。
恩徳讃は数多くの親鸞聖人が作られた御和讃の中の「正像末法和讃58首」の中の、58首目に出てくる御和讃です。
その他たくさんありますが、
<浄土和讃>の初めに出てくるのが
弥陀の名号となえつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもいあり
南無阿弥陀仏と称えながら、本当の心を得ている人は、深く思い込み、いつまでも忘れない思いを常に持っているもので、生かされているという事に感謝する思いがあふれ出てくるものですよねぇ。
<讃阿弥陀仏偈和讃第二首目>には
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ
如来の、私を生かそうという慈悲の光は、生きとし生けるもの全てに降り注ぎ、その光に照らされないものはないのです。この真実の明かりに、はいそうでしたと、素直にうなずいていくのですよ。
<讃阿弥陀仏偈和讃第四十首目>には
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし
一つ一つの花の中からも、もう私の知識では数え切れないほどに、生きようね という願いが、生き生きと飛び出していて、その願いが届かない所はないのですよ。
仏の願いは、私が頼みもしないのに、私の方へやって来ているのです。その光に、私は気づこうともしないのです。気づいた時、「私はなんとたくさんの、そしてすばらしい力の中で生かされているのだろうか」と、はたと思いあたるのですね。
そうすると、その願いそのものに対して、手を合わせざるを得なくなってくるのです。言い換えると、恩徳讃を唄う時に、手が合わないのは、まだ、私の力で生きてやるという傲慢があるとしか言えませんねぇ。
あなただけの力では、一時でさえ生きては行けないでしょうに・・・・。
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