観無量寿経は、真宗の正依の聖典としての三部経(大無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)の中の一つです。
釈迦が説かれたとか、そうではないとか、との学説があるようにも聞きますが、ある王族の家庭に起こった親子の葛藤が、浄土への道として示された壮大なドラマでもあるのです。
それがどんな出来事であったのかを以下に、私流にかみくだきました。
ある時、王舎城の耆闍崛という山の中で、お釈迦さまは、比丘1250人、菩薩32000人の方々とご一緒におられました。そのリーダは文珠師利法王子でした。
王舎城に一人の皇太子がいて、名前を、阿闍世と言いました。
彼をそそのかして、地位と名誉を得ようとたくらんでいた友人にダイバッタという人物がいました。この人はお釈迦様の従兄弟にあたる人でした。
ダイバッタが阿闍世にこんな事を言ったのです。
「お前の小指が折れているのはなぜだか知っているか?」と。
阿闍世はそんなことは何も知りません。ダイバッタは、続けて話をしたのです。
「お前の両親は、国の国王だけれども、結婚して長い間、子宝に恵まれなかった。そこで、占い師に占ってもらうと、『向こうの山の中で修行をしている仙人が死ぬと、生まれ変わってあなた達の子供になるのです。』と言ったのさ」
「そのことを聞いたお前の両親は、仙人に会いに行って、早く死んでくれるように頼んだのさ」
「しかし、仙人は、『もう少し修行をせねばなりません。あと3年辛抱してください』って言った」
「けれども、おまえの両親は、子供が欲しいばっかりに、とうとうその仙人を殺してしまったのよ」
「するとな、占い通り、お后さん、つまりお前の母親が妊娠したんだよ」
「生まれてきたのは丈夫で元気な赤ちゃんだったが、そのとき、ふと、生まれてきた経緯を思い出してな」
「もしも、この子が大きくなってから、そんな秘密を知ったら、大変なことになるのではと、生まれたばかりのお前を、崖の上から落として、始末してしまおうとしたんだぜ」
「ところが、幸いにも、お前は小指の骨が折れただけで助かってしまったのさ」
「どうだい。お前の小指が曲がっているってことが分かったかい?」
「お前の両親は、お前を殺そうとした人間なんだぜ」
と、告げたのです。
阿闍世は、プッツンと切れてしまって、父親の頻婆娑羅王を七重の牢獄の奥に閉じこめ、食べ物も与えず、面会も禁止してしまったのです。
何日か経って、
「父はどうしているか?」と門番に尋ねました。さすがに、「父はもう死んだか?」とは言えなかったのです。
門番は、
「お后様が毎日面会に来られます。私たちは家来ですから、お后様をお止めすることはできません」と答えました。
お后の韋提希夫人は、身体をきれいに洗い、身体に蜂蜜を塗り、その上から小麦の粉を塗り、首飾りの玉をくり抜いて、その中にブドウの汁を入れて、毎日面会に来ていました。
頻婆娑羅王は、その蜂蜜と小麦を舐め、ブドウの汁を飲んでいましたから、元気にしていたのです。
そして、お釈迦さまの弟子の目連と富楼那が空から飛んできて、お釈迦さまの教えを説いていました。
その事実を知った阿闍世は、
「私を殺そうとした父をかばう母も、私にとってはまた敵である」
と、まさにブチブチにプッツンになって、自分の母を殺そうとしたのです。
そのとき、二人の重臣の月光と耆婆が、阿闍世の前に立ちふさがりました。
「昔から、悪王という人はたくさんいて、王位ほしさに父を殺した皇太子は18000人もあると聞いています。しかし、母を殺した子供がいた等と言うことは、未だかつて聞いたことがありません。そんなことは人間のする事ではありません。あなたがどうしても母上を殺そうとなさるなら、私たちは、刀にかけても、そんなことをさせる訳にはまいりません」
と、腰の刀に手を添えて、阿闍世を諫めました。
それには阿闍世もびっくりして、殺す代わりにと王宮の奥深いところの牢獄に母を閉じ込めてしまったのです。
「私は、何の因果で子供にこんな目に遭わされるのでしょうか」と、韋提希は毎日悲歎にくれていました。
「ダイバッタはお釈迦さまの従兄弟ではありませんか。こんなに尊いお方の従兄弟が・・・・」と。
「どうぞ目連さんと阿難さんを私の所に遣わして、私のこの苦しみを救ってください」と、お釈迦さまに願いをかけたのです。(目連:阿難は釈迦の弟子)
お釈迦さまは、耆闍崛山から空中を飛んで、韋提希の所に来られました。
韋提希は、
「私には、どんな罪があるのでしょうか。どうしてこんな子を産み育てたのでしようか。こんな子供に育てた覚えはありません」と、号泣しました。
お釈迦さま、韋提希のために、様々な極楽浄土を目の前に現して、その極楽浄土に生まれる方法(?)を、一つ一つ説き証して行きました。
浄土を、確かにみていくということから、「観無量寿経」と名付けられています。
浄土とは永遠のいのちの存在するところです。
永遠のいのちとは、限りなきいのち。限りなく尊いいのちということです。
どのようにしてその浄土を実感していくかは、観無量寿経を読んでみてください。
阿闍世は、体中に出来物ができ、高熱でうなされる毎日が続きました。
しかし、阿闍世もお釈迦さまの教えを聞いていくことによって、出来物も癒え、清らかな人間になっていったと言うことが、別のお経の中に説かれているのですが・・・・。
21世紀を間近に控えながらも、私たちの毎日の生活の中で、親が我が子を殺し、子が親を殺すなどという事件は、いくらでもあります。それらの原因は様々でしょうが、我を振り返ってみる余裕もないのでしょうね。助けて貰う事は望んでも、助けようとすることは、まっぴらごめん、という信念の方もあるのでは。
お互いが生かされている世界でありたいものですのに。
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